第584回 思いは千の翼にのって

前回のリサイタル“ソナタに恋して”の折には、お客様へのお土産についてのアイディアや企画に関わってくださっただけでなく、その作成をお引き受けくださってとてもたくさんのご協力をいただいた、千葉県八千代市のカフェふくろうさんオーナーの黒澤ご夫妻。

お客さまおひとりおひとりに気配りをしつつ、豆の個性を熟知し、それを最大限に生かすよう自家焙煎した珈琲を心をこめて入れてくださるマスターと、そのかたわらで柔らかく微笑みながら、会話の中で絶妙なトスをあげてくださる奥さま。おふたりに会いたくて、そしてもちろんマスターの入魂の一杯を味わいたくてカウンターに集まった常連さん同士がお友達になることも少なくありません。

リサイタルのときには安定期に入るかはいらないかの微妙なタイミングでしたが、奥さまは「それが、あまり(つわり)ひどくないんですよ。珈琲のにおいも、まったく気にならないの」と、いつものように微笑んで、私のオリジナルレシピのコーヒーの香るチョコレートチップクッキーを試作してくださいました。リサイタル当日も、身重でいらしたのに笑顔でお手伝いくださって、とても心強く、楽しんで本番を乗り切ることができました。心から応援してくださる方がいてくださることに、感謝あるのみでした。

その後「男の子が産まれました」というお知らせを頂いた時には、親戚でもなんでもないなんて信じられないほど嬉しくて、勇んで(?)お店にお祝いを言いに出かけました。ちょうどその日の午前中に奥さまが退院されたばかりで、初めて自宅に“やってきた”赤ちゃんを、その初日に胸に抱く栄誉を頂きました。奥さまの手から私が抱っこしても目を覚ます気配もなく、腕の中ですやすやと眠る“彼”の愛らしさ、柔らかさ、温かさ…。

赤ちゃんがいると、その周囲は得もいえぬ平和で穏やかで幸せな雰囲気に満たされるものです。「いい子ね…。どんなお名前がつくのかな?」眠っている彼にそっと話しかけると、マスターが「ウチに着た日に美奈子さんに抱っこしてもらえたって…。すごいプレミアムですよ。音楽の好きな子になるといいなぁ」と、おっしゃいました。「こんなすばらしい日に抱っこさせてもらたなんて、プレミアムなのは私のほうです!」

稔くんという名前になったと伺ってから二ヶ月足らずのある日、稔くんが6時間にも及ぶ胆管梗塞の手術を受けたことを知りました。まだ産まれて間もないのに、稔くんはその後も合計3度の大きな手術を耐え抜いて、今も入院しています。半端ではなく高いプロ意識をもつマスターは、毎日笑顔でカウンターでの接客とネルドリップをこなしています。ツイッターでも、極力稔くんの話題やご自信のご不安については触れないのですが、マスターの仕事に対する厳しい態度を知るがゆえに、その姿に励まされるやら自分の非力さに苛まれるやら…。

そんなある日、マスターのある短いツイートが目に留まりました。「千羽鶴、始めました」三度目の手術の、一週間ほど後でした。

すぐにでも飛んでいきたい気持ちでした。その頃めずらしく体調を崩し、なかなかうかがえずに悶々としていましたが、昨日やっと念願かなって折りに行くことができました。

鶴はすでに、千羽を越えていました。まだ、ツイートから一週間ほどだというのに。聞くと、はじめマスターは「鶴を折って治るのなら、何千羽でも折ってやる!」と、寝る時間を削って3日間で500羽も折ったのだそうですが、それを知った友人から「自分ひとりではなく、周りの人にも折ってもらうほうがちからになるんだよ」と教えられ、ハッとしたのだそうです。そうです。無理がたたってマスターが倒れてしまっては、何にもなりません。

カウンターには、鶴を折りにくる常連さんの姿が毎日見られるようになりました。私が伺った日の数時間前には、ツイッターを見た横浜の見知らぬ方から「稔くん、早くよくなりますように…。友人、家族と一緒に折りました」というメッセージと一緒に、郵便で何十羽もの鶴が届いたといって、マスターが目を赤くしていました。

私も、鶴を折りました。ひとおり、ひとおり、「治りますように…」という願いをこめて。二時間以上が、あっという間に過ぎました。それでも、足りないくらいでした。ちいさなからだでがんばっている稔くんを思うと、治るまで折り続けたくなりました。マスターの気持ちが、痛いほどわかりました。

大切な人のために、その人を思って自分の時間をついやす。それはそのまま、おもてなしの極意でもあります。目に見えないもののもつ確実な“ちから”を感じられる人は、芸術や自然を深く受け入れ、楽しみ、そこからさらなるちからを得て豊かな人生を送ることができると信じています。

「親は無力だ」と、マスターはおっしゃっていたけど、マスターの、奥さまの、そして周囲の皆さんの気持ちは、必ず稔くんに伝わるはずです。稔くんの生きようとするちからと、人と人とのあいだに息づく人を思いやるちからの強さを信じて、回復をお祈りしています。

「 Cafeふくろう、開店しております。今日も一日、大切なものを守るため、頑張っていきましょう!」マスターの今日のツイートです。

稔くん。強くて優しいおとうさんが、稔くんが帰ってくるのを楽しみに待ってるよ。おうちに帰ってきたら、また抱っこさせてね。おててが大きくなったら、一緒にピアノ、ポンポンして遊ぼうね。

2012年09月14日

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