第559回 すてきなお楽しみ

乳がんを克服して生き生きとレッスンに通われている、すばらしい生徒さんがいらっしゃいます。生徒さん、といっても私よりもはるかに“人生の先輩”です。

東西に分裂していた頃の東ドイツに住んでいらしたこともあり、ドイツ語はとても堪能。彼女がたまにシューマンなどの曲に書かれているドイツ語の音楽用語をさりげなく発音されたりすると、そのあまりの音の美しさに一瞬、ぼーっとしてしまいます。

フルタイムでお仕事をされているのにお料理も完璧にこなし、すばらしくお上手ですし、パンを焼くのも朝めし前。お着物の着こなしもとてもステキで、帯や帯止め、根付などのコーディネートにはいつもテーマや遊びをもっていらして、拝見しているだけでよい心持ちになります。二人のご子息を立派に育てあげていらして、私からみるとまさにスーパーウーマン。さらに尊敬してしまうは、彼女がパソコンのエキスパートだということです。

彼女…Sさんのお仕事は、パソコン教室の先生。すべての機種やOS、ソフトをつかいこなし、なんと分解、修理、組み立てまで、悠々とできてしまうのです。パソコンにとことん疎い私から見ると、レベルのちがう星に住んでいる方のようなまぶしさです。しかも、おっしゃるには「私は、生徒さんに恵まれているんですよ。クラスの生徒さんたちに、変なひとが一人もいらっしゃらないんです」

私も、生徒さんには本当に恵まれているなぁ、と、常々ありがたく思っているのですが、Sさんの場合は人数が違います。のべにすると、100人は越えているはずです。彼女の人徳です。

クラシックが大好きだったご主人様を数年前に亡くされて、一時は何もする気がおこらないほど、落ち込まれたそうです。以前、結婚式のお写真を拝見したことがあります。ウエディングドレスをまとって幸せに顔を輝かせ、微笑んでいる愛らしいSさんのお隣には、すらっとした、ハンサムな男性が立っていました。とても仲睦まじいご夫婦だったことは、Sさんのお話の端々から伺えます。亡くされたときのショックはどんなにか大きいものだったことでしょう。そこへきての、乳がんの発症でした。

大きな病気も、入院すらも、したことがない私には想像を絶する辛さ、壮絶な葛藤や苦しみがあったことだと思います。それでも、Sさんの笑顔はいつも、あの結婚式の時の少女のような輝きを湛えていて、そんな苦労なんて微塵も感じさせません。

「病気って、“気の病”ですからね。あなた病気ですよっていわれると落ち込んで、気持ちから病に入ってしまうんですよね。でも、ガンなんて、今は初期であればほとんどがなおせるんです。風邪をひくみたいなものなんですから、深刻に考えすぎないで、直ると信じて治療することだと思います」それを克服されたからこそ、のお話です。

病気ですよ、と言われるのは、確かに辛いものです。真実でも、受け入れたくないことです。私なんてそれがいやで怖くて、病院に行くことをなるべく避け、逃げてしまっているのです。何がいやって、やはり気持ちが落ち込むこと。痛さ、不自由さももちろん大きな苦しみですが、気落ちにまさる辛さはないような気がします。

自分が演奏家だから、余計にそうなのかもしれません。向かっていくものや夢を奪われたら、それこそ生きる気力がなくなってしまいますもの。それを失うぐらいなら、生きられる時間を削られるほうがいいわ…、なんて考えてしまうときもあるほどです。

そんなこんなで逃げてばかりでがん検診もろくに受信していない私は、Sさんのように、逃げずに闘って克服なさった方を心から尊敬せずにはいられません。

たくさんの示唆やお励ましを頂けるSさんのレッスンは、毎週とても楽しみです。そんなすてきな時間を頂いているSさんが、前回のレッスンの時にとても可愛らしいプレゼントを持って来てくださいました。その名も“ムッキーちゃん”。お料理上手なSさんらしく、調理器具?です。

「あまりキッチングッズって好きではないのだけど、これは使ってびっくり!グレープフルーツや伊予かんの薄皮が、一瞬ですーっとむけるんですよ!」「わぁ、それはすてき!」「グレープフルーツはスプーンですくってたべてたべるともったいないので、ひとつひとつ薄皮をむいて食べる人なんです」「私もです~!あれはもったいないですよね、たくさん果汁が残ってしまいますもんね~」

果物が大好きで、毎食後に欠かさない私にうってつけのプレゼントです。さっそく、一緒にくださった八朔で試してみたら…爪を立てることもなく、気持ちがいいほどらくに薄皮がむけるではありませんか!これはナイス!毎日、活躍間違いなしです。

何より、ムッキーちゃんと一緒に“Sさんの笑顔を思い浮かべながらムッキーちゃんで果物をいただく”という、すてきなお楽しみを頂いたのが嬉しくて、八朔がほんのり甘口に感じられたのでした。

2012年03月09日

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