第549回 恩師のひとこと

師走というと、主人公(?)は師…先生です。これまで、音楽の師匠はもちろん、たくさんの師匠から、貴重な教えをいただきました。今回は、まだご紹介していなかった恩師のお話をしたいと思います。

さて、今こうして毎週エッセイを書いていますが、特定の方への私信ではなく、不特定の方に向けて何かを書くことは、大分以前からしています。

一番古くはミニ新聞…その名も私の名前の「美」と、苗字の「鈴」をとって『みすず新聞』の発行です。…とはいっても、月刊で手書き一ページほどのもので、内容は身近なニュースや家族の話題。配布は親戚関係者に限られていましたし、一年ほどで惜しまれながら(?)廃刊になってしまったので、実績としては不十分です。

公に向けて定期的に文章を配信したのは、もっとあとになってから。桐朋学園を卒業し、留学したハンガリーからの通信でした。こちらは、仙台でお世話になった先生が主宰されていた仙台学友協会が、17年以上の長きにわたって発行していた『仙台音楽案内』という、れっきとした同人誌でした。その、名誉ある表紙の巻頭エッセイを私が担当することになったのです。タイトルはシンプルに“ハンガリー留学日記”。

音楽に造詣が深く、地元紙河北新報の文芸欄でも頻繁にコンサートレビューを執筆していらした東北大学の元名誉教授、故・藤井康治先生も、『仙台音楽案内』にかかわっていらっしゃいました。藤井先生は私がハンガリーに渡る前のデビュー時から必ずコンサートに足を運んでくださり、温かいお気持ちに満ちた批評を書いてくださいました。

藤井先生のように、コンサートや評論活動などの音楽経験だけでなく、人生経験も豊かな目上の方からのお励ましは、若い駆け出しのピアニストの私にとって、どんなにありがたいものだったでしょう。

演奏についてのコメントもさることながら、先生からいただいたとても印象的なひとことがあります。

「あなたの文章は、とてもいい。あなたにはブンサイがある。どうか、ずっと書き続けてください。いいですね、書き続けるんですよ。」

音楽と違って、文章については自分のものがいいとか上手いとかいう評価をまったく求めていなかったので、先生のお言葉はとても意外でした。先生のおっしゃる“ブンサイ”という言葉が“文才”のことだ、と、瞬時にわからなかったほどでした。

帰国してまもなく『仙台音楽案内』は廃刊になってしまい、私もしばらくは書くことをしなくなりました。でも、心のそこかから、折りにふれて藤井先生の「いいですね。書き続けるんですよ」という声が聞こえていました。

その後、細々とパソコンをいじるようになり、ホームページを自作して、さて、何を載せようかと考えたときに、やはり先生のその言葉が聞こえたのです。もう11年ほど前のことです。

私は、また書き始めました。下手でも内容が薄くても、なんでもいい。とにかく、できるだけ続けてみよう、と思いました。あっという間に11年が経ち、その間2003年12月に藤井先生はお亡くなりになりました。87歳でいらしたと思います。

先生が褒めてくださった“ハンガリー留学日記”を、読み返してみました。ブダペストについて3週間後、ようやく自宅にピアノが入ったとき嬉しくて弾きながら泣いてしまったこと。ギムナジウム(高等学校)でのコンサートで、椅子が壊れて高さの調整が出来なかったので、急遽ベートーヴェンの楽譜をお尻に敷いてピアノを弾いたこと。生徒さんとみんなで“さくらさくら”を歌ったことやら、リスト音楽院大ホールの檜舞台でソロを弾いたときの感動…。若い稚拙な筆ではありますが、読み返すとあの時の感動がよみがえってきます。

改めて、人間にとっての本当の宝物とは、こうした目に見えない“思い出”に尽きるような気がしてきました。先生や周りの方々との出会い、交流、共感…。私にとって、そうしたものに勝る宝物はありません。先生の教えに従って「書き続け」てきたお陰で、きっとこれから先、楽しい思い出の宝を失うことはないでしょう。「書き続けなさい」とおっしゃってくださった藤井先生に、改めて感謝したい気持ちでいっぱいです。

もうすぐクリスマス。通常のお仕事以外、何の予定も入っていませんが、何かを求めるよりも、何も求めないクリスマス、というのもいいかもしれません。

でも、もし「もういいオトナだし、デートの予定やプレゼントなんて、いらないもん。そのかわり、クリスマスは周りの人たちに感謝して静かに過ごすことにするわ」…なんて言ったら、友達に思いっきり茶化されるんだろうなぁ。「ふ~ん、なるほど。その周りの人ひとりひとりにカンパ~イ…って、合法的にお酒を飲もうって魂胆ね?」とか…。

2011年12月16日

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