第547回 「ソナタに恋して」にいたるまで 其の六 (最終回)

ところで、先生…あるいは目上の人からの「ひとこと」は、時として人の心に大きく響くことがあるように思います。

先生という立場に限らず、それが先輩であったり親であったり、はたまた上司であったりと、状況はいろいろと考えられると思うのですが、自分を知り、関わってくれている相手からの「ひとこと」は、人に大きな影響を与えるものではないでしょうか。私の場合は、プリドノフ先生の「ひとこと」によって、ぐっとシューマンに親しみを抱くきっかけを得ましたし、その数年後に師事したロンドンのアンジー・エステルハージ先生にも、多くのとてもよい示唆をいただくことができました。

エステルハージ先生は、かつてはモスクワ音楽院の名教師でモスクワ音楽院の院長も務めたネイガウスの弟子でした。同門下のピアニストには、エミール・ギレリスやスヴァトスラフ・リヒテルといった、そうそうたる名ピアニストの名前が並びます。

ネイガウス先生のレッスンがいかに素晴らしかったか、は、エステルハージ先生のお話を聞かずとも先生のレッスンから感じ取ることができました。レッスン時間は無制限。作品について感じたこと、考えたことをとことん話し合い、演奏のさまざまな可能性や楽想に対してのイメージをどんどん拡げてくださいます。テクニックは非常に洗練されていて、自分の持っている肉体的なスキルを最大限に“生かす”方向を一緒に見出し、決して既存の“メソッド(方法論)”の押し付けはしないのです。(ちなみに、私はこのメソッド、というのがあまり好きではありません。大手コーヒーチェーン店のマニュアルみたいで…。)

チャイコフスキーのピアノ協奏曲をレッスンしていただいた時のことです。第一楽章の、あの美しい第二テーマのメロディーのところで、先生が「このフレーズを、僕に3通りの歌い方で弾いてみせてくれないかい?」とおっしゃいました。私はできるかどうか、内心どぎまぎしながらも、フレージングや抑揚、イントネーションを変えて、なんとか3通り弾いてみました。

ところで、個人的にはレッスンで「出来ません」あるいは「出来るかしら?」、ましてや「はい、存じています」なんていう言葉は絶対に禁句、という掟にしています。(もちろん、生徒さんには強要していません。)出来ないなんて言おうものなら、もうその先は教えていただけないかもしれない。先生に「この子はそんな程度か」と、“妥協”されてはたまらない。それにもし「存じて」いるなら、それを表現できていないのは未熟だからです。指摘を受けているのですから、それも言う必要のないこと…と、物心ついた頃から自分なりに考えていました。

さて、私が弾いた後、先生はしばらく沈黙してから静かにこうおっしゃいました。「すばらしい才能だ。感動したよ。しかし、とても残念なことだ。君がもっと早い段階でよい指導者にめぐまれていたなら、今頃はものすごいピアニストになっていたことだろうに。まぁ、人にはそれぞれ運命ってもんがあるからね。」

褒めていただいたのやらダメだしされたのやら、まさに“微妙”で、どう受け止めたらよいものか。先生は、このコメントからも伺えるようにとてもリアリストで、音楽界の光り輝ける部分も暗黒面も、すべてを知り尽くしている方なのです。私は先生に伝えました。「私は多分、有名なピアニストにはなれないと思います。でも、よいピアニスト…よい音楽家にはなりたいと思います。」先生の答えは「うん。そう。それが君の幸せなら!」

その気持ちはウソではありませんでしたし、今も変わりません。先生から得た貴重な教えは、それを少しでも演奏に反映できるように、そして生徒さんに少しでも伝えられるように、…と、弾くことと教えることの両方の部分で、私の糧になっています。

弾くということは、作曲家の意図を第三者に伝えるという、責任ある使命が発生する行為です。と、いうとなにやら堅苦しく感じてしまいますが、実はこのあたりこそ、楽譜という“事実”と向き合って、そこから無限の表現の可能性を追求する、クラシック音楽というジャンルの醍醐味でもあるのです。

演奏家というと、感じたままエキセントリックに弾いたり、独自の表現をとことん追及するイメージを強くもたれる方も多いと思いますが、私は自分そのものを前面に出すのではなく、私の感じた作品の本質をお伝えしたい、というのがいちばんの願いです。つまり、私の演奏の“主語”は、「私」ではなく「作品」でありたいのです。そして、作曲家と、私を支えていただいた周囲の方々や教えを下さった先生方、会場にいらしてくださるお客さま、そして私、が、「作品」を介して何か一つのものを感じあえたら、こんなに嬉しいことはありません。

実際には、難しくてなかなか上手くいかないところやら、様々な不安を抱えての当日になることは避けられないと思いますが、震災復興のための小さな一歩に音楽家として関われる幸せを胸に、できる限り心を“無”にしてステージに臨みたい気持ちでいっぱいです。

(「ソナタに恋して」にいたるまで 終)

2011年12月02日

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