第546回 「ソナタに恋して」にいたるまで 其の五

さぁ、フライヤーもできたし、チケットも自作完了。あとは私の「仕込み」と広報活動ということになります。

「仕込み」…つまり、練習についてはいうまでもなく、ぎりぎり当日までひたすら最善をつくすしかありません。でも、イベントとして考えたときにそれに匹敵するくらい大事な広報活動…コマーシャルというものが、実は大の苦手なのです。

あちこちにフライヤーを持参して出向き、アピールをする。マスコミ関係に取材の依頼をする。今までいらして下さった方にご案内のDMを送る。mixiやtwitter、facebookなどの、いわゆるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などでイベント告知をする…。することはたくさんあります。でも、「それより今は練習練習!」と、気持ちがそちらになかなか向いてくれません。

アーティストというのは、興行的なことや経済性、効率性などからもっとも離れたところでいきている人種なので、元来、仕方がないことではあるのかもしれません。だからこそ、マネージャーだったりプロデューサーという職業の存在が必要なのです。

でも、哀しいかな、そこは一匹狼の私です。しかも、今回は東日本大震災の復興支援。少しでも多くの黒字を出し、それを全額寄付するのだという責任があります。いつものように、のらりくらりとしていてはいけないとは分っているのですが、毎度のことながら、何からどうしてよいものか未だに模索している始末です。

もうここは、いさぎよく諦めて(?)、いつもの私でいくことにしました。つまり、できることを精一杯するまでです。せめて、このエッセーを読んでくださった方が、今回のリサイタルや、私の演奏する曲に興味を持ってくださいますように…。そんな、ちょっとこずるい(?)願いも抱きつつ、これから少し、当日の演奏曲目の中から、シューマンのソナタ第一番についてのお話をしたいと思います。

シューマンのソナタ第一番には、思い出があります。シューマンのソナタというと第二番のほうがずっと有名で演奏される機会も多いのですが、第一番は彼のまだアンバランスな心の揺らぎが感じられて、「不完璧であることの魅力」があるのです。献辞は「クララへ。フロレスタンとオイゼビウスより」クララというのは、言うまでもなく将来彼の妻になるクララ・ヴィーク。才色兼備な方で、作曲もこなすし、ピアノの腕前もそんじょそこらの男性ピアニストに負けない立派な才能の持ち主でした。

気になるのは、そのクララへこの曲をおくった“フロレスタンとオイゼビウス”なる二人の人物です。これは、実はシューマンのペンネーム。彼は当時『音楽時報』という雑誌(?)を刊行していたのですが、その中で複数の人物に成りすまして(とはいっても、分るように、ですが)議論をさせたりしていました。

社交的、積極的で、快活な性格のフロレスタンと、内向的で思慮深く、物静かなオイゼビウス。シューマンは自身の性格にも、彼らのような二面性があることを認識していたとも言われています。その“二人”からの献呈ということは、シューマンが彼の心のうちをすべてさらけだしての、迫真、かつ本音の“告白”ということになります。

第一楽章は、うねる波のような左手の伴奏にのって、特徴のあるリズムをもつメロディーによる序章で幕を開けます。抑えることのできない強く激しい思いと、恐ろしいほどに不安な思いとが、かわるがわる顔をのぞかせ、その痛々しいような心の中の葛藤を提示したのちに、本編に入るのです。

初めて聴いたときから、惹きこまれました。もともと、作品に限らず、アーティストだろうがファッションブランドだろうが、世間一般の知名度とか人気には左右されにくい性質です。いいえ、むしろ無名の“お気に入り”に出会ったときの喜びは、他の何にも変えがたいものがあります。日本ではその感覚を分ってもらえる機会が少なかったのですが、ヨーロッパに行ったらほとんどの人が私に近い価値観を持っていることがわかり、とても安心しました。

この作品には、まさにそんな“出会い”を感じました。アメリカに留学していた当時、師事していたユージン・プリドノフ先生のレッスンで初めてこの曲を聴いていただいたときのことは、忘れません。私が弾き終わると、先生はたいそう大きな声でおっしゃったのです。「なんてステキなんだ!このソナタがこんなに素晴らしい作品だとは、これまで認識していなかったよ!なんてこった、なんで今まで気づかなかったんだろう!いい音源にも出合ったためしがないし、今ひとつな“埋もれた”作品だと思っていた。ミナコ、是非キミはこの曲をどんどん弾くべきだ!そして、この曲の素晴らしさを、僕だけじゃなく、たくさんの人に示してあげなさい。キミはそれができる、貴重なピアニストだよ!」

プリドノフ先生は興奮気味に顔を赤く高揚させ、ほとんど涙目になりながら一気にこうおっしゃったのでした。先生は普段からちょっとお芝居がかったところがあって盛り上げ上手でもいらっしゃるので、そんな風におっしゃっていただいた私はどう反応していいものやら…。戸惑いましたし照れくさかったのですが、それでもとても嬉しかったのです。いつか、リサイタルでこの曲を弾くぞ、と、すっかり“その気”になってしまいました。

ひとを“その気”にさせるというのは、大切なことです。このとき私は、自分が目指したいのは、人に「上手に弾ける」「上手なことを伝える」ピアニストではなく、「作品の素晴らしさを伝えることができる」ピアニストなのだ、と、はっきりと理解することができたのです。とても清々しく、幸せな気持ちでした。

(「ソナタに恋して」にいたるまで 其の六…最終回…に続く)

2011年11月24日

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