第532回 傷ついちゃった夏の日

八月初日。何か足りないものを感じながらも、いつものようにジムに向かった。手早く着替えてランニングのフロアへ。ジム通いも三ヶ月目に入る。さすがにマシンの扱いにも慣れた。何より、だんだん走っている30分が短く感じられるようになってきた。いいぞいいぞ。

トレーニングを終えてシャワー室に向かう。汗でウェアがべったり肌に貼りつくのは気持ちのいいものではないけど、これらをえいやっと脱ぎ捨てて熱いシャワーで一気にリフレッシュする気持ちよさには替えられない。下着もとって、さて、と思った瞬間…はたと気づいた。タオルを忘れてきたことを。あの、何か足りないと感じていたものは、タオルだったのだと。

何ということ!ベタベタなまま、また服を着て家に帰らなければならないの?…否!それはあまりにむごい。でも、どうしたら…?その時、今手に持っているこの頼りないナイロンのボディータオルを絞り絞り、根性で体の水分をふき取って何とかしのぐことを思いついた。幸い、今日の装いは体を締め付けないふわ~っとしたワンピース。体に少々の水気が残っても、家に帰る前に乾くに違いない。大丈夫、大丈夫。

かくして、わたしはシャワーを決行した。しっかりしっかり、快適なシャワータイムを体でかみしめた。そして、計画通りにボディータオルで最低限の拭きあげ作業を行い、頭からワンピースをかぶってなにくわぬ顔でロッカールームに向かった。なぜかちょっとハイになっている自分を感じながら・・・。なんだろう、これは。

そうだ、これは旅の感じだ。旅で窮地にたたされたときも、私はこうやってない知恵を絞り、なんとかやり過ごしてきた。例えば、ドイツのとある駅。もうフランクフルトの空港に向かって日本に帰るばかりだったこの日、手持ちのユーロがないというのに有料(使用料一ユーロ!)のトイレしかなかった、あの時…。両替所もなく、万事休すかと思ったその瞬間、やはりひらめいたのだった。入線済みの長距離列車を探し、列車の中のトイレを使って事なきを得ることを。

「こういう危機的状況で機転が利くあたり、なかなかわたしも捨てたもんじゃないな」と、ひそかに悦に入りながらジムを後にした後、再び何か足りないような、あのいやな感覚に襲われた。何だろう?

「あっ!」つい、声がでた。返却式ロッカーの100円玉を受け取るのを忘れていたのだ。平静を装うも、結局は動揺していたのだ。愕然とする。だめじゃん。だめだめじゃん。わたしったらいい気になって、恥ずかしい。「機転が利く」というフレーズが石の塊りになって、高いところからドカンと落ち、こなごなに散った。

愕然とした気分を引きずりつつも、まだあのまま残ってわたしに引き取られるのを心細そうに待っているかもしれない100円玉のこと思うといてもたってもいられず、ひらりときびすを返してジムのエントランスを目指した。わたしの100円玉ちゃん、今迎えに行くからね…。

と、その時。「!?!」思いがけない激痛が走った。痛みの震源地は、二年前に巻き爪の手術をした左足の親指だった。ランニングで爪に負担がかかって調子が悪かったところに、ひらひらのワンピースのレース部分が引っ掛かって、爪の一部が剥れてしまったのだった。足の指が完全に出るサンダル姿だったのも、不運だった。

どくどくと流れ出る血、また血。みるみる足先が赤く染まり、サンダルも血まみれに。これではもうジムに戻れない。わたしは受け取れなかった100円玉に心の中で「ごめんね」と告げ、自分の不甲斐なさに傷つきながら帰宅した。

二日後。その親指は結局、近所の病院で根こそぎ引っこ抜かれる運命になった。わたしの親指は麻酔をうたれることなく、素面で爪との別れの瞬間を迎えた。激痛に耐えながら、わたしはまた心の中で告げた。「さようなら、親指の爪ちゃん」可愛くお花やラインストーンでネイルアートしてあったのに、こんな仕打ちをうけるなんて、ひどい、ひどすぎる!…そんな親指の爪嬢の叫びが、聞こえてくるようだった。

その時、「これ、記念に持って帰る?」わたしの体と引き離されたそれを、皮膚科の先生がピンセットでひょいとつまみ上げて、言った。記念って、乳歯じゃないんだし、持って帰っても土に埋めたりしないし…。「結構です」わたしは充分すぎる痛みの中で、空虚に答えた。

「ランニング、どのくらい控えないといけませんか?」「どうかな~。親指の爪は蹴るのに大事だし、個人差あるからな~」「新しい爪、ちゃんとはえてきますよね?」「う~ん、曲がってはえる可能性はあるけどね。その時は手術だね」専門家の率直な見識は、時として人を失望させる残酷さを帯びる。

病院から家に帰る道すがら、蝉の鳴き声がいつもと違って聞こえた。なんだか悲痛な声だった。

2011年08月03日

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