第529回 夏の想い出

初めて子供だけで新幹線に乗ったのは、小学生の頃でした。夏休みに二つ年下の妹とふたりで、当時住んでいた名古屋から目黒に住んでいた祖母に会いに行ったのです。

とはいえ、名古屋を出発する時には新幹線のホームまでは母が付き添ってくれましたし、東京駅到着時には、ち予め何号車に乗るのか伝えてあった祖母が、ちゃんとドア口で待っていてくれたのですから、完全に子供だけで過ごすのは乗車中の二時間ほどだけだったのです。それでも、妹と私にとっては一年の一大イベントでした。

なにしろ、その準備はまず車中での読み物調達から始まるのです。母はその当時、原則として漫画を買って読んではいけない、という教育方針(?)を持っていましたが、夏休みの“新幹線車内用”は例外でした。そう、この場合の読み物調達は、年に一度の合法的漫画購入を意味していたのです。

許されたのはひとりにつき一冊のみ。すると、長編連載物や雑誌などは、選択できません(雑誌の連載にはまってしまっては、後が気になってかえって切なく歯がゆい思いをすることになります)。一冊完結の読みきりに絞って、本屋さんでじっくり時間をかけてその特別な一冊を見定めるのですが、それがなかなかの至難の業でした。
なにしろ、“年に一度の一冊”なんですもの。

「おねえちゃん、決まった?」「う~ん、と、ね。ちょっと、まだ…」「わたし、もう決まった」「えっ?そうなの?まこちゃん(注:妹です)何にするの?」「わたしはこれにする。ねぇ、おねえちゃん、まだ決まらないのぉ~?」「ごめんね、もうちょっと待って…」

姉とは名ばかり。何に付けても妹の方が要領がよく、早いのです(世の中の兄弟、姉妹って、みんな似たような傾向があるのかもしれませんが)。そうして購入した漫画を、健気にも新幹線乗車当日までの数日間決して開くことなく、表紙だけ眺めて過ごしたのでした。

新幹線乗車にあたって、特別に許されていることがもう一つありました。それは“車内販売でアイスクリームを買う”ことです。

これはもう、車窓よりも漫画よりも、ある意味旅のハイライトでした。漫画は漫画で、一ページ一ページ大切に読み、読み終えると妹と交換もして充分に楽しむのですが、普段「アイス」といえば氷菓やラクトアイス、せいぜいアイスミルクどまりで、ちゃんとした“アイスクリーム”なんて滅多に食べられなかった当時のこと。一度逃したら今度はいつ、売り子さんが来るかわからないので、「アイスクリームは如何ですか?」の声を聞き逃しては大変、と、目と脳は漫画に、耳は車内に向けて、その声を心待ちにしていたのでした。

そんなふうに、いつのまにか母から旅の楽しさを教えてもらっていたのだな、という気がしています。たとえば、小さな一つ一つの準備から当日がさらに楽しみになってくることや、旅の間のふとした出来事が何年経っても色褪せずに、ずっといい想い出になって、自分の中にキラキラ生き続けていくこと、などです。

東京のホームに到着する時には、祖母がちゃんと迎えに来てくれているかどうか、ドキドキしながらその姿を探したものでした。もちろん、いつも必ず、待っていてくれました。その日はだいたい、従弟の家でちいさな音楽会になるのが恒例でした。音楽が大好きだった祖母は、妹や私のピアノを聴くのを楽しみにしてくれていました。

二人の従弟はヴァイオリン、私たちはピアノを、それぞれ披露するのです。実は祖母に聞いてもらう曲を、前々から心積もりしてしっかり(?)練習を重ねていたくせに、「ミコちゃん(注:わたし)、ピアノ聞かせてちょうだい」と言われると、「え~っ?どうしよう~」なんて照れてみせる子供でした。そのくせ、もしも祖母が聞かせてちょうだい、と言わなかったりしたら、どんなにかがっかりしたことでしょう。

そして、祖母は演奏後には必ず「上手になったのねぇ。マーちゃん、びっくりしちゃった。また聞かせてちょうだいね」と、労ってくれました(マーちゃん、は、目黒の祖母の愛称です)。

旅の楽しさは母が教えてくれましたが、ピアノを聴いてもらう喜びは、今思うと祖母に教わったのかもしれません。この当時から今に至るまで、自分の演奏を楽しみにしてくれている人にピアノを聴いてもらって、「よかった」と言ってもらえる幸せは、わたしにとって何にも変えがたい支えになっています。

もっとも悲しかったのは、お別れの時でした。祖母は、見送りを嫌いました。祖母自身が遊びに来てくれた折にも、「電車に乗って、姿が見えなくなるまで『さようなら』って手を振って見送られるのは、マーちゃん好かないの。悲しくなって涙がでちゃうわ」と、すでに涙ぐみながら話していたのを覚えています。お別れはいつも、ホームではなく改札でした。

戦争で夫を亡くし、30歳で未亡人になってから独りで母を含む3人の子供を育て上げた、気丈な人でした。いつもおしゃれで、おばあちゃんになってもハイヒールを履きこなしてさっそうと歩く後姿は、わたしにステキな女性のあり方を教えてくれていたのかもしれません。

2011年07月15日

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