第515回 くじけない人に

3月11日の震災の後、世の中のさまざまなことが変わってきています。当たり前に手に入ったものがそうではなくなったり、駅や街が薄暗くなったり、予告されてはいても、実際に行なわれるかどうか分からない停電にやきもきしたり、電車が時間通りに運行しなかったり…。逆に考えれば、今までの生活はずいぶんたくさんの安心によって支えられていたのです。

好きなだけ電気を使えるし、水道をひねれば誰にとっても安全な飲み水がでるし、ガソリンスタンドにいけばいつでも給油ができるのが当たり前でしたが、そうではなくなりました。皮肉なもので、それらがまた復旧してくると、それまで忘れていた感謝の気持ちが、よみがえってきます。そして、そんな感謝の気持ちを感じることができたとき、いっそう大きな幸せや、生きていく勇気を授けられたような気がします。

被災地の方々が、助けあい、耐え忍びあい、大変な状況の中にあってそれでも前をむいていこうと唇をかみしめている姿に、文明社会の便利さにおぼれていた私は改めて日本人の強さと誇り高さを感じ、涙が出るほどの大きな励みをいただいています。同時に、何も役に立てないことへの苛立ちと、わずかでもいいから何かできることを、という焦りも感じています。

負(マイナス)を正(プラス)にできるちから…それこそが人間の真の強さだし、真の英知なのではないでしょうか。

音楽家には、それを全うした人がたくさんいます。例えば、聴覚を奪われたベートーヴェン。音楽家にとって、聴覚を奪われるということは、画家が視覚を、料理人が味覚を奪われるに等しい…人間のライフラインを根こそぎたたれるような、致命的なダメージです。それでも彼は、屈しませんでした。シューマンやラフマニノフ、マーラーたちは、精神を病みながらも、諦めることなく作曲を続けました。音楽家という職業に専念することを許されなかったリムスキー・コルサコフは、海軍兵として遠洋航海にでながら、船上で交響詩『シェエラザード』を書き上げました。

人は、本来弱いのです。恐らく、動物以上に弱いのです。だから、家族だけでなく、社会や国家、民族という群れをなして生存しているのです。共通の文化や言語、あるいは宗教感といったもので、つながりを確かめ合いながら。そして何より、お互いのことを思いやり、助け合うことで、自分が強くなっていくことを知っているのです。強くなるということは、人の役に立つことができるということに他なりません。

勝ち組、という言葉が流行ったことがありました。それがどういう意味なのか、どういう状態の人のことをいうのか、未だにわかりません。そもそも、人生は勝ち負けではないと思います。目指すとしたら、勝つことではなく強くなることではないでしょうか。しかも、強くなるのに、能力や年齢は関係ないと思います。条件があるとすれば、自分の“弱さ”を分かっていること、そして、人の“弱さ”も分かっていること。

ベートーヴェンもシューマンも、自殺しようとしました。ラフマニノフもマーラーも、何度も筆を置こうとしました。でも、踏みとどまりました。自分の弱さを受け入れられたから、前に進むことができたのだと思います。そうして、強さをましていった彼らの音楽が、これまで何人を励ましていることでしょう。

ひとりで暮らしている私は、この三週間ずいぶん不安な日々を過ごしました。自分の弱さ、無力さにがっかりしたりもしました。でも、今は少しずつ前に進めそうな気持ちになっています。そばに音楽があって、本当に良かった。本当に自分にとって必要なものにさえ失わずにいられたら、多少の不便や不安なんて何でもない、ということも、ちょっとだけ実感できました。

コンサート活動やレッスンだけでなく、音楽を通して他にも何かできることがあるのではないか、と、以前から考えていました。三期(3年)にわたって展開してきた『大人のための音楽塾』もそのひとつでした。さらに地域の人々の結びつきや交流を深め、物からだけでは得られない心の豊かさや支えを得られるような「あるもの」の実現に向けて、動き始めたところです。賛同し、強力してくれる仲間に恵まれていることに、心から感謝しています。

いつか私も彼らのように、負(マイナス)を正(プラス)にできる人に…周囲の人たちの役に立てる、くじけない強い人に、なれますように。ベートーヴェンの美しくやさしいバガテルを弾くたびに、そう願いたくなるのです。


2011年03月25日

« 第514回 手をつなごう | 目次 | 第516回 “民謡みたいなもの” »

Home