第506回 睦月のひまわり

お正月番組も一段落したある日、ぼんやりテレビをつけていたら『ひまわり』が始まりました。そうです、あの、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名画です。

初めて見たイタリア映画は確か、父をささえる6歳の少年ブルーノが印象的な、同監督による『自転車泥棒』という作品だったと思います。その時は貧しい親子の生活に欠かせない自転車が盗まれ、なかなか見つからない理不尽さに耐えられなくて、最後まで見ないでリビングを“途中退場”してしまいました。

イタリア映画は幼い頃の私にとって、初めてのヨーロッパ映像体験でした。ディズニーの映画でも、“悪者”がこらしめられるシーンで、その“悪者”があまりに不憫に思われて泣いていた私にとって、ハッピーエンドにならない物語はあまりにも切なく、やるせない思いにかられたものです。

それでも、主人公たちのその後が気になって何日も悩みこんでしまうほどに入れ込んでいたのは、悪者も善き主人公(?)も、同じようにガンマンを振りかざして決闘したり、なぜか予め“敵”という設定になっているインディアンが登場すれば、だれかれ構わず銃をうちまくる西部劇より、子供なりにリアリティーを感じたからではないでしょうか。

主人公が恐ろしく、はらはらさせられる“敵”に立ち向かい、最終的には“めでたしめでたし”、あるいは“やれやれ”と、締めくくるアメリカ映画と違って、『ひまわり』や『ライフ・イズ・ビューティフル』といったイタリアの作品は、前半で人々のささやかな幸福が陽気に描かれ、後半ではそれが戦争や理不尽な権力によって打ちのめされる、という二重構成をもっていたりします。

エンディングで映し出されるロシアのかの地に一面に広がるひまわり畑はかつて戦場だった場所で、その土の下にはイタリア兵やロシア人の捕虜―――兵士たちだけでなく、老人や子供までも―――が眠っているのだという説明が、劇中にでてきます。本来は平和で心和む景色であるはずのひまわり畑は、戦争で雪の中死に絶えた人々がその下にひまわりの数だけ眠っているのだという、衝撃的なシンボルだったのです。

『ひまわり』は美しい音楽、男女の愛…切なく甘いロマンスを描いた恋愛映画のようでいて、実は銃撃戦も描かずしてそのアンチテーゼを訴えた、強烈な戦争映画なのかもしれないな、などと、ひとり感じいったのでした。

イタリアの人たちは陽気、というステレオタイプばかりがひとり歩きしがちですが、こんな映画を見ると彼らこそ、人間にとって何が大切なのか、人の尊厳とは何なのか、ということに無骨に向き合っている人々なのかもしれません。陽気になれるのは、きっと本当の苦しみや悲しみがどんなものなのかを、いやというほど遺伝子の中で理解しているからなのではないでしょうか。

ヒロインが、悲しいことをただ嘆くばかりでなく、それを振り払って前を向いて生きていくエンディング…というと、ヴィヴィアン・リー主演の映画『風と共に去りぬ』が思い出されますが、「明日は明日の風が吹く…」なんていうドラマティックなセリフを語るでもなく、ただ無言で泣きながら愛する人の乗っている汽車を呆然と見送るソフィア・ローレンの姿に、より強いリアリティーを感じて、引き込まれましました。

彼女の涙は、それまでの人生のすべての喜び、悲しみを湛えて魂から溢れ出た、一切の虚飾を排したまっすぐで正直で、美しいものでした。何より、そこには弱々しさよりも、これからも涙とともに凛として生きていく強さが感じられて、感極まってぼろぼろと泣いてしまいました。ヘンリー・マンシーニの、あまりにも切ない音楽も、反則です。

泣きながら、「人を幸せにする涙も、あるんだなぁ」なんて思っていたら、つい先日、お姉ちゃんのレッスンについてきた2歳の妹Mちゃんが、お姉ちゃんのレッスン中に「ねぇ、Mちゃんもピアノ弾きたい!Mちゃんも弾きたいの!(おうちでだけはなく)美奈子先生のとこで、弾くの!」と、お母さんに気持ちをうったえながらさめざめと泣きだしてしまいました。なんてすばらしい意欲と情熱でしょう!「Mちゃん、ピアノが大好きなのね。もう少し手が大きくなったら、きっと一緒にピアノお稽古しようね」Mちゃんの涙に、じ~ん…と感動しながら、心の中でこっそりつぶやきました。

睦月に見た『ひまわり』は、誰かの支えを求める弱さ、苦難を乗り越えてひたむきに生きていく強さの両方を持っている人間の豊かな性分を、たっぷりと感じさせてくれました。

2011年01月14日

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