第497回 閉講、そして閉店

先週、本年度の『大人のための音楽塾』が無事、終わりました。三期目の今年は、“名演奏家を愉しむ”と題して、名演奏そのものだけでなく巨匠たちの人となりや人生をも味わってみよう、というコンセプトですすめてみました。

最終回には、会場のレストランを、いつもとは違うレイアウトにしていただいて、DVDを鑑賞しました。一時、ポーランドの首相にもなったパデレフスキーやホロヴィッツ、ルービンシュタインが演奏しているところや、ラフマニノフの貴重なアーカイブ映像などが、現在一線で活躍しているピアニストやプロデューサーたちのコメントを交えて紹介されているものです。

「聴衆と演奏者のレベルが違いすぎている今、コンサートで(彼らの前で)弾くことには興味がない」と言い切るグールドや、ほんのわずかなコンディションの乱れ(それが、自分自身でなく調律師でも!)で、すぐにコンサートをキャンセルしてしまうイタリアの名ピアニスト、ミケランジェリの、神経質にして完璧この上ないステージなど、それぞれの演奏家のエキセントリックなパーソナリティーには、何度見ても圧倒されます。各人が、それぞれにあった独自のテクニックをもって楽器に向かっている様子にも、改めて感じ入るものがありました。

映像を見終えた後、受講生の皆さんおひとりずつに今回の講座を受けての感想を発表していただきました。「20世紀の名演奏家たちの、あまりにも強烈な個性に、圧倒されました。今現在も、優秀な演奏家はどんどん育っているけれど、彼らのように50年100年後になお語り草になるような個性豊かな逸材は、果たしてこれから出るのだろうか、と、考えてしまいました」お嬢さんが私のところでピアノを習っている受講生の方が、おっしゃいました。本当にそうだなぁと思いました。いえいえ、自分も演奏家のはしくれ。本来はのん気に「そうだな」なんてと思っている場合ではないのですが…。

文化とは、独自性を母に、社会的普遍性を父に育っていくものではないかと考えていますが、今はインターネットやらなにやらで情報過多の時代。社会的普遍性、というもの自体がいったい何なのか、見失いがちになっている気がします。独自性にいたっては、日本の教育方針にせよ、EUに代表されるようなグローバリーゼーションの傾向にせよ、それが実体をもたない言葉になってしまわないことを祈るばかりです。

ともあれ、すばらしい受講生の皆さんの発表をもって、今回の音楽塾は閉講しました。毎年この瞬間、ひとり転校しなければならない時のような淋しさを感じるのですが、この日その思いがとくに強かったのには、理由がありました。

3年間、音楽塾のために場所を提供してくださったレストランのオーナーさんが、お店を離れることになったのです。なんでも、今月いっぱいでいったん閉店し、経営者や営業形態などお店の中を変えてのリニューアルオープンになるとのことです。

10年前に私がこの場所に引っ越してきたのとお店のオープンがほとんど同じ時期だったこともあり、このお店にはずいぶんお世話になりました。仙台の両親をはじめ、大好きな友人たちを何度、連れてきたことでしょう。

食べることが大好きな両親はもちろん、新日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスター、同団首席チェロ奏者や読売交響楽団のファゴット奏者、欧米で活躍してきたフルート奏者で、学生時代からの親友Sさんや、バルトークの研究と楽譜の校訂で、もはや日本の第一人者になっているAさんなど、美味しいものが大好きな音楽家たちは、こぞってこのお店を絶賛しました。彼らの評価はいつも、お料理やコストパフォーマンスだけではなく、オーナーさんの絶妙な接客センスや、ワインや食文化についての豊富な知識と適切なアドバイスにありました。

一線で活躍している彼らとオーナーさんとで、実にいろいろな話に花が咲きました。ヨーロッパの地域性とその特徴についてや、国民性と食べ物やらワインの嗜好の関係について、はたまた、最近の若者論(?!)などなど…。本番前に、美味しいお料理やワイン、そしてオーナーさんとのおしゃべりでリラックスしよう、と、ひとりでカウンターに座ったことも何度もありました。

素敵なワインを、ボトルでなくてもグラス単位でいただけたり、その一杯のワインをお料理に合わせて相談することが許された、希少で個性豊かな、そして思い出深いこのお店がなくなってしまうのは、なんとも心淋しいものです。音楽塾がここまで育ってきたのも、3年間続けてこられたのも、オーナーさんがこの上なく良心的な条件で、快くご協力くださったおかげでした。これから、この街にとってもオーナーさんにとっても、新たなよき展開があることを願いたい気持ちでいっぱいです。

Sさん、10年間、家族ともども本当にお世話になりました!ありがとうございました。

(*来週の『ピアニストのひとり言』はリサイタルSYMPOSION東京公演当日にあたるため、お休みいたします。次回更新は11月12日の予定です。)

2010年10月27日

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