第491回 文化派人間

今年で三期目(三年目)になる、『大人のための音楽塾』。今期は“名演奏家を愉しむ”と題して、いろいろなお話を交えながら巨匠たちの名演奏を聴きこんできたのですが、昨日その第五回目が終わり、残すところあと一回となりました。

かつて母校で非常勤講師をしていた時の授業前を思い出しながら資料を作って、時間配分を考えて、と、下準備をして、毎回私自身が楽しんで進めているので、あと一回で終わってしまうと思うと心淋しくなってしまいます。卒業式が近づいてきたような心境です。

それにしても、資料を集めたり、作成していてつくづく感じるのは、実に便利な世の中になったものだ、ということです。CDが欲しければ、わざわざお店に出かけなくても数多あるWEBのショップでたくさんの中から選ぶことができますし、検索をかければ様々な情報が得られます。そればかりか、今は亡きアーティストの“幻の”動画すら、見ることができるのです。

今や、こうして、家に居ながらにしてCDも買えるし、知りたい情報も見たい映像もインターネットで見放題。いやいや、CDそのものは買わず、試聴したりダウンロードしたりするのも、思いのままです。自分が生きている間に、立体で見えるはずのない平面の画面から、映像が“飛び出て”見えたり、画面を相手にゲームやスポーツ(!)ができたりするようになるとは、思いもしませんでした。これこそ、文明の利器、というものなのでしょう。

でも、物事には大抵、一長一短があるものです。CD屋さん(この言葉には、どうも個人的に違和感があります。どうしても“レコード屋さん”と言いたくなってしまう…)や出版業界は大変なのではないかな、などと、つい、いらぬ心配をしてしまいます。

文明は、人による、人のための知恵や技術ですが、文化は民族や地域の特殊性に発して、人から人へと伝承し、またさらにその独自性を表現するために生み出されていくものです。例えば、茶葉を焙煎するのは文明ですが、それをいかに頂くかを選択するのは、文化。文明には発達があり、優越もありますが、文化にはそれぞれに特徴や非・普遍性があって、優越はつけられません。

その二つが、ちょうど左脳と右脳のように、うまくバランスをとっていれば、人は快適に暮らしていけるのだと思うのですが、どうも近頃、文化よりも文明にばかり、人の視線が向きすぎていないかな、と思ってしまうのです。「文明に傾きすぎると、文化は廃れる」とまでは言いませんが、アンバランスな様子や、文明・文化を同一に捉えてしまう傾向には、危惧を感じます。

そこへきて、“サブ・カルチャー”なる言葉も、頻繁に出てくるようになりました。サブ・カルチャーは娯楽を主な目的とするアニメや漫画、ゲームなどのことで、その反対語がクラシック音楽や絵画などの“ハイ・カルチャー”なのだとか。文化はそもそも、色々あっていいわけですが、サブ・カルチャーにこれまた傾きすぎてしまうのは如何なものでしょう(そういえば、脚本家の野田秀樹さんも、かつてそんなことをおっしゃっていたっけ)。

文化には、自分のアイデンティティを見つめ、他者を認めることができるようになるための、大事な機能が内包されているような気がします。異文化に触れることで、“自文化”を改めて認識することができますし、異文化を理解しようとすることで自分の価値観、世界観を広げていくことができます。

よく“左脳派人間”“右脳派人間”、という言葉を聞きますが、同じように、技術や機械にとても興味がある“文明派人間”、芸術や民族性・地域性に魅力を感じる“文化派人間”に分けることも、できるかもしれません。

昨日の音楽塾では、バルトークの音楽を聴きました。20世紀初頭、文化を押しつぶさんばかりの勢いで文明が発達する中、地球の好ましくない方向へのグローバル化の胎動を感じながら、彼はあえて地域性、非・普遍性の濃い、祖国ハンガリーや周辺国の民族的な音楽を追求し、その透き通った清い水のエッセンスを抽出して音に紡いでいきました。随分前から、彼の書いた民族的な音楽を聴くたびに、まるで自分の国に古くから伝わる、ゆかしい音を聴いているような錯覚に陥って、なんともいえない豊かな気持ちになります。地域性や特殊性、個性が極められると、すべての人類に通じる普遍的なものになるのだと信じて、これまで20年以上にわたって、何度となくバルトークの作品をコンサートやリサイタルで取り上げてきました。

つい最近、司馬遼太郎さんが生前「風土性を煮詰めると化学のように変化が起こって、普遍性に転換する」と、おっしゃっていたと知りました。とても励まされる言葉です。

2010年09月17日

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