第482回 オープンハートのリング

いよいよ7月。衣替えには時期はずれですが、この季節になるとクローゼットを整理したくなります。湿気が高い日が続くし、タンスの中の虫対策が気になるからでしょうか。

虫、といえば、桐朋学園大学に入学し、寮に入って初めての夏のある一日を思い出します。桐朋学園の寮は調布市にあります(今、ちょうどNHKの朝の連続ドラマの舞台になっているところです)。周辺は緑が豊かなのんびりとしたところで、駅からの道すがら、夏はうるさいほどのセミの声を聞きながら歩くことになります。商店街を抜け布田天神という天神様を通り過ぎると、セミの代わりに今度はピアノやヴァイオリン音がコラージュのように周囲の空気を埋めつくすようになり、やがて寮の門にたどり着くのでした。

当時、その“調布寮”入寮一年目は四人の相部屋でした。お友達はみんな個性溢れる、素晴らしく楽しい、気の置けない人達ばかりで、毎晩ガールズトークに花を咲かせたものです。私も初めて二段ベッドの、しかも上段に就寝する日々を経験しながら、新鮮な驚きで毎日が輝いていたっけ…。

相部屋の他に、楽器を練習したり落着いて勉強するための個室も、ひとりひとりにきちんと与えられていました。さて、ある晩のこと。夕食をすませ、さて、もうひと練習しようかな、と思っていたところに、相部屋仲間のEちゃんの声が響き渡りました。「きゃあああ~っ!虫、虫!」

同学年の友人たちのなかでもひときわ大人っぽく、おっとりと落着いていて、大きな声なんて出すような子ではなかったので、いったい何事?と、ドアが開け放たれたEちゃんの個室に駆け寄ってみると…。「ほら、虫が、虫が!」と、興奮状態です。そして、彼女が指差す先には、世にも有名なゴキブリの姿がありました。

「虫…って、Eちゃん、これゴキブリじゃない」「え~っ!これが、これがゴキブリなの~!?」「もしかして、見たの、初めて?…すぐに逃げちゃうかもしれないけど、今用務員さんに殺虫剤借りてくるから、とりあえず待ってて」でも、結局、この日は“彼”を取り逃がしてしまったように記憶しています。

そう。産まれも育ちも北海道の彼女にとって、ゴキブリとのご対面はこの時が初めてだったのです。私は、「これ」が「それ」であること、本州では決して珍しくないこと、また遭遇する可能性も大いに考えられるから、心配なら殺虫剤を常備しておくといいことや、“彼ら”の中には飛行する輩もいるので、心の準備をしておくこと、などなどをレクチャーしたのでした。と、同時に、このときを境に、梅雨がなくゴキブリもいない北海道という土地に、がぜん憧れを抱くようになったのでした。

私には、そんな他愛もない、日常の小さな出来事をいかにも楽しそうに聞いてくれる存在が、二人ありました。一人は仙台の実家の母、そしてもう一人は目黒の祖母でした。

自らも音楽が大好きで、少女時代にはヴァイオリンも習っていた目黒の祖母には、桐朋学園に入学する前から、月に一度の東京でのレッスンに付き添ってもらったり、入学に際しても何かにつけてお世話になっていました。

仙台から送られてきた、母のハンドメイドの洋服を着て、小さな子供にピアノを教えるアルバイトをしながら学生生活を堅実に(?)過ごしていた私も二十歳になり、祖母が「これで何か、記念になるような綺麗なものを買いなさい。お勉強に使うのではなく、何かオシャレに使うのよ」と、お祝いをくれました。散々迷った挙句、指を守ってくれますように…という“お守り”の願いをこめて、指輪をつくることにしました。

訪れたのは、銀座の某有名ジュエリー店。でも、初めてのことに、どんなものを選んだらよいものか、判断が出来ません。店員さんが「どのようなものがお好みでいらっしゃいますか?」と聞いてくださったので、「30代、40代になってもできるような、飽きの来ないものがいいです…」などと言ったような気がします。

「では、こちらはいかがですか?」と、取り出してくださったのは、ゴールドのリングにホワイトゴールドのオープンハートのモチーフが入ったもの。そのハートのモチーフには、一粒のダイヤモンドが埋めこまれています。ひと目で気に入ったものの、「ハート、可愛いですね。でも歳をとってもおかしくないでしょうか」と、自信なげに聞くと、「大丈夫!お客様が40歳になられても、50歳になられても、きっとお似合いになりますよ」と、太鼓判を押してくださいました。

その時の店員さんがおっしゃったとおり、そのオープンハートのリングは、あれから四半世紀たった今も、たびたび活躍しています。指につけるたび、祖母の顔と、店員さんの言葉を思い出しています。

2010年07月02日

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