第463回 ちょっとビターな想い出

バレンタインデー近し。不景気と言われながらも、都内のデパートや大型スーパーでは、催物会場や特設会場などで大々的にフェアが開催されています。日本だけでなく、世界の名店やカリスマパティシエ、ショコラティエの手による逸品がずらりと並び、夕方になると大勢の女性客で、お祭りのようにごった返しています。

桐朋学園時代は音楽一辺倒、髪もベリーショートにして、まったく男っ気のない毎日をのびのびと過ごしていました。その頃から、同年代、後輩を問わず、女の子にはなぜか人気がありました。麗しい乙女から手作りのチョコレートを頂けるのに、いやな気持ちになるわけがありません。その日は、自分が“あげる”というより“頂ける”かもしれない日として、チョコレートを求める女の子で溢れかえるお店を横目に、なんとなしにやり過ごしていました。

そんな私が、初めて他人にチョコレートを渡したのは、大学を卒業してから。しかも、ハンガリーでのことです。勿論、当地ではそのような習慣はなかったのですが、何を血迷ったか、意を決して憧れの先生に初バレンタインチョコを贈ることにしたのです。

その先生は、イシュトバーン・セーケイ氏。リストを弾かせたらピカイチ…何度か来日もしている方です。ただ、得意不得意がはっきりしすぎていることや、いわゆる“処世術”のようなものにまったく興味がなく、立ち振る舞いが不器用なことなどから、なかなか仕事と人脈に恵まれず、実力相応の評価を得られていない印象でした。もっとも、ヨーロッパには、彼のように、ド級の実力がありながら知名度が低い、本物のアーティストが数多くいて、それゆえに私自身も、知名度やマジョリティーにこだわらず、いい演奏家になることを目指そう、と、決心するに至ったのですが。

そんなセーケイ先生は、ピアニストとして尊敬できるだけでなく、アイルトン・セナにそっくりのハンサムで、しかも、独身!男っ気のない約20年を過ごし、男性に免疫のない私が、憧れずにいられるわけがありません。弟のゾルタンもピアニストで、兄以上にハンサムで映画スターさながらの容姿の持ち主でした。近寄りがたい雰囲気とは裏腹に性格はとても気さくで、なぜか私をフランス人と間違えて、フランス語で話しかけ、「彼女はミナコ。日本人だよ」と、兄に直されたりするお茶目なところもありました(私が「日本人」とわかると、今度は日本語で「はじめまして、ミナコ。げんき?かわいい!いち、にい、さん、しい、ご!」など、知っている日本語を駆使してまくしたてるのでした)。

当時のハンガリーでは、質のよいカカオマスが手に入らず、値段は安いが美味しくもない、下手するとカカオマス不使用の“なんちゃってチョコレート”(厳密には“チョコレート”ではなく、さしずめ、日本でいうところの“準チョコレート”、あるいは“チョコレート菓子”にあたるもの)、子供同志の贈り物にもならないようなものしかありませんでした。そこで、ドルショップと呼ばれている輸入品を扱っているお店に行って、オーストリアやドイツのチョコレートを物色します。勿論、バレンタイン用のラッピングなんてしてくれませんから、それ用の紙を探し、カードを選び…。今思うと、かなり熱心に準備したようです。

さて、当日。レッスン室の前で先生の出てくるのを待って、練習しておいたセリフと一緒にチョコレートの包みを渡しました。「日本では、2月14日はバレンタインデーといって、女性から好きな男性、お世話になった方などにチョコレートを渡す日なんです。…あの、これ、どうぞ!」練習したのでセリフは言えましたが、もともと異国の、かといって日本古来のものでもなく、ある年から関西の製菓会社が提唱して根付いた習慣でしかないものです。言いながら、「これ、告白とかじゃなくて、単なる“説明”よね?」と、なんだか空しくなってしまいました。

しばし、怪訝そうな顔でその“説明”を聞いていた先生でしたが、それでも「それはありがとう!」と、頬にハンガリー式のキスをして、「じゃ!」と、爽やかに去っていきました。ああ、これで私の春は終わったのだわ…と、リスト音楽院の絢爛たる装飾に彩られた廊下の一角で、レッスン室から洩れ聞こえてくるピアノの音をバックに、しばし呆然と立ちすくんでいたのでありました。

程なく我に返るも、まだちょっと酔っ払ってボ~ッとなった時のようになっている頭の中を「あ~あ、子供にもするようなあんなキスじゃなくて、もうちょっと大人の女性向けの(?)キスだとよかったんだけどなぁ」、なんていう思いがかすめましたが、次の瞬間「いやいや、いかんいかん!おい、君?一体何を考えているんだ!」と、頭の中いっぱいに広がった妄想画面は、もう一人のわたしに、架空の極太油性マジックペンで無残にもごしごしと塗りつぶされてしまったのでした。その間、約1,8秒。

これこそ、世に言うところの、“チョコレートのようなほろ苦い想い出”ってやつです。ベタですが。いや、ビターですが。…って、この、照れるとオヤジ化してしまう性質(タチ)をまずは何とかしなければ、春は来そうにありませんね。とほほ。。

2010年02月12日

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