第449回 本能よりも“本脳”で

「私、美奈子先生と同じ高校だったんですよ。」ちいさなYちゃんのお母さんが、その日のレッスンの後、帰りがけに話してくれました。「え~っ!?そうだったんですか?あの…宮城県第二女子高校に?」「ええ。三年生の一年間だけだったんですけど」「わぁ~、すごい偶然ですね!」「校歌、覚えているんですよ。歌詞が難しいんですよね」「そうそう、“大和御女子(やまとおみな)のかぐはしき”…ですもんね」「(ここらへんからお母さんと二人で、しばし歌う)た~まし~ずも~れる、お~か~の~べの~♪…」

ひとしひきり歌ったあと、覚えているものですね、とお互いに感心したり、学年はだぶっているかしら、などと、話に花を咲かせていると、しばらくニコニコしながらお母さんと私の顔を交互に見ていたYちゃんが、ふと言いました。「ねぇ、お母さん、美奈子先生のおうちに泊まる?わたし、泊まりたいな…」「泊まらないわよ。まぁ、この子は何を言い出すかと思ったら…!」玄関先で、皆で笑いあったのですが、Yちゃんの、このなんとも愛らしいコメントに、その日は顔が緩みっぱなしになってしまいました。

Yちゃんは、お母さんと私が、ほとんど誰も知らないような(しかも意味不明の!)歌を声を揃えて歌っている様子に、なんだかとても和やかな、くつろいだ雰囲気を感じたのでしょう。そして、その楽しい雰囲気の中で、もうしばらく過ごしたくなったのだと思います。「このまま歌ったりおしゃべりしながら夜になって、一緒におやすみなさい…になったら、もっと楽しくなるだろうな。いい想い出になるだろうな」と、想像したのかもしれません。そしてそれらが理屈・理由を越えて、本能的に「泊まりたい!」と、Yちゃんに思わせ、言わしめたのでしょう。

さて、ここで疑問がわいてきました。本能って何なのでしょう?“本”当の“脳”力って?

ひどい脳内出血によってひと言も言葉が話せなくなったあるアメリカ人女性が、実の母の元でリハビリを続け、8年後に奇跡的に回復して以前のように話ができるようになった、という事例があるそうです。彼女のお母さんは、何もしゃべれなくなった娘を抱きしめた時、「ああ、この子はもう一度、赤ちゃんに戻ったのだ。そしてもう一度私に、赤ちゃんになった娘の子育てをさせてくれるチャンスをくれたのだ」と、感じたと話していました。そして、彼女の回復を本能的に確信したといいます。「この子がかつて、赤ちゃんの時から何年もかけて少しずつ言葉を覚え、成長したように、何年かすればまたきっと話せるようになる」と。

こんな話もあります。赤ちゃんの頃は、言葉が話せないかわりに表情や動き、泣くことやむずがることなどでコミュニケーションをとることができて、それはそれで彼らにとって、とても幸せなことなのだ、だから赤ちゃんはみんな、基本的にご機嫌なのだ、と。でも、言葉がないことによる幸福は、言葉を得ることによって失われてしまう…かつて赤ちゃんの頃には楽しいと感じることばかりだったのが、色々な体験や学びによって、辛いこと、悲しいことが増えていく、と。

それは、本能だけで生きてきたものが、知恵を得ることによって、もっと複雑な理念や感情を抱くようになるから、ということなのでしょうか。“得ることによって失うもの”は、確かにあるでしょう。でも、一方では“失うことで得るもの”もあると思うのです。

ここで、本能とは?…に話を戻します。そもそも、私たちが持っているのは“能力”だけではないのではないでしょうか?だって本能とは、本来はもっと自然な感覚、感性に根ざした、生理的なものなのだと思うのです。例えば、能力ではなくて“脳力”のような…。つまり、本当の本能とは“本脳”のことなのではないでしょうか。

“本能”は、社会性を身につけていく段階で、知能を得ることで少しずつ廃れてしまうものですし、たくさん持っていすぎてそれに翻弄されると邪魔になるものかもしれません。でも、“本脳”は、本人が意識しないほど深いところでの、まさに潜在的な意識だったり、体で感じる正直な判断力なので、邪魔にならないし、むしろ育ち続けることもできる…本能と違って、負の要素がないものなのです。

Yちゃんがもし、本能だけで行動したのなら「泊まりたい」と言うだけでなく、「ここに泊まる!」と駄々をこねて大人たちを困らせたかもしれません。でも、彼女はきっと、本能だけによってではなく、もっと深い、高度な脳の感覚によって「泊まりたい」と言ったような気がします。それを言うことで、私をとても愉しい気分にさせ、和やかな場がさらに和んでもっと素敵なひとときになることが、無意識的に分かっていたのです。子供ってそんな、天使のような存在なのです。そんなYちゃんの本脳的感覚を大人になっても持っていられたら、どんなに毎日が愉しいことでしょう。

能力なんて気にしないで、“本脳”にしたがって生きてみる…なんだかその方が、あまり小さなことは気にしないで、強く優しい人になれるような気がします。人と人とがお互い“本脳的に”尊重し、信頼しあえたら、国の政治がどうであれ、この世はずっと生きやすいところになることでしょう。貧しい国の自殺率が低いのには、そんなことも起因しているのかもしれません。

2009年11月01日

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