第414回 マザー・テレサと茨木のり子さん

以前にもこのエッセイで、代表作の一つ”自分の感受性ぐらい”をご紹介したことがある、大好きな詩人茨木のり子さんが亡くなって、もうすぐ3年の月日が流れようとしています。

茨木さんは1926年生まれ。人間が誰しも本来もっているはずのたくましさ、そして本当の意味の優しさを、ある時にはストイックな語調で、また、ある時にはユーモラスなリズムを呈してうたっていく彼女の詩には、背筋のピンと伸びた清々しいつよさが感じられて、幾度となく励まされています。

亡くなった時にはお独りで暮らしていらして、自宅の寝室で遺体で発見されたのは2月19日とのことですが、あるいはその前にすでに亡くなっていたのかもしれません。いずれにしても、きっと、茨木さんらしい、凛とした見事な最期だったことでしょう。傍らには遺書も用意されていたとそうです。

『倚りかからず』(筑摩書房)という詩集の中に、“マザー・テレサの瞳”という詩が掲載されています。来日した折り、「日本は物質的に本当に豊かな国で す。でも、町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に 無関心なこと。物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちなのです。物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人 たちです。愛の反対は憎しみと思われるかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」と、言い放ったマザー・テレサと茨木さんのつよさは、私の中でどこかリンクして――共通性をもって――響きあっています。

今回は彼女の三回忌を前に、この詩を皆さんに紹介したいと思います。


”マザー・テレサの瞳”


マザー・テレサの瞳は
時に
猛禽類のように鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は
時に
やさしさの極北を示してもいた
二つの異なるものが融けあって
妖しい光を湛えていた
静かなる狂とでも叫びたいもの
静かなる狂なくして
インドの徒労に近い献身が果たせただろうか
マザー・テレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりして
中途半端なやさしさを撃ってくる!

鷹の目は見抜いた
日本は貧しい国であると
慈愛の眼は救いあげた
垢だらけの瀕死の病人を
―― なぜこんなことをしてくれるのですか
―― あなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨のような重たさ
自分を無にすることができれば
かくも豊饒なものがなだれこむのか
さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので
呆然となる

たった二枚のサリーを洗いつつ
取っかえ引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけど
八十六歳の老女はまたなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯

(中略)

―― 言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った

2009年02月04日

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