第411回 うまくちな人生

知人から、作家の開高健さん出演『河は眠らない』というビデオを借りました。アラスカの大自然の中で、生前の開高さんが、人生哲学や、釣り、自然観について、エッセイのように語っているというものです。

「これまでいくつもの戦争・紛争の現場にをルポしてきたけど、戦争を語ろうとすると、いつもおなじボキャブラリーの繰り返しになってしまう。それで、すっかりいやになってしまった。それで釣り師になったわけです。それに対して自然には無駄なものは何もない。一見無駄なように見えるけど、実は人間にとって大切なもの、というものもあるのではないか。無駄を恐れてはいけないし、無駄を軽蔑してはいけない。何が無駄なのかなんて、簡単にはわからない。」「「絶望して森(自然)の中に入ると、いろんなものが見えてきて、絶望は別のものに転化する、ということになる。」

想像していたよりもちょっと高いトーンで、ややゆったりとした口調で語りかけるように話していらっしゃいました。戦争・紛争と自然という、人間がこれまで、常に関わりをもってきた究極の正反対的存在について、ばちんと簡潔に述べてしまう明晰さに、いまさらながらに感服します。

「現代は、考えることの出来る人にとっては喜劇、感ずることの出来る人にとっては悲劇」「どういう酒が一番いい酒か?こんな女がいたらさぞや迷わせられるだろうな、と思う女のような酒…黙ってても二杯飲みたくなる酒が、いい酒。日本酒は甘口、辛口というのがあるが、もうひとつ、それに加えてうまくち、というのがある。飲んで飲み飽きない酒、うまくちの酒、うまくちの女、うまくちの芸術、うまくちの音楽を求めなさい。そのためには、のべつ、無限に、二日酔い、失敗、デタラメを重ねないと、なにがうまくちであるのかはわからない。」

話題は釣りや人生観だけでなく、女、酒…と、広い範囲に及び、開高節は絶好調。アラスカの美しい風景映像とともに、極上の時間を演出しています。意外だったのがバックに流れていた音楽。何種類かが使われているのですが、最初と最後はいずれもブラームスだったのでした。

キーナイ川で57ポンドもの見事なキングサーモンを50分にも及ぶ死闘(?)の末に吊り上げ、満面の笑みを浮かべる開高さん。釣りの後、シングルモルトを麦茶のようにラッパ飲みする開高さんの豪快さと、ブラームスの楽曲の繊細にして芳醇な和声と旋律の絡み合いは、そのまま、文筆活動に趣味の釣り、お酒に女…と、人生を謳歌した開高さんと、生涯独身だった孤高の作曲家ブラームスという、二人の天才の対比を喚起させます。

でも、開高さん風に「苦しみ、楽しみながら、何が“うまくち”なのかを追い求め続けることが、“うまくち”な人生である」、と考えるのであれば、もしかすると、二人のどちらもうまくちな人生を送った、という点において、共通しているのかもしれません。無駄、失敗を恐れることなく、自分の感じるままに何かを求め、生きていくこと。その先にあるものについて、心配しすぎることもなく、奔放にして緻密に…。

このビデオを貸してくれた知人は、今月新たな人生のスタートを切りました。彼自身がこの数年にわたって傾倒し、研究を重ねてきた南インド料理のお店を開店したのです。先日のプレオープンに招かれて初めてお店にお邪魔したのですが、彼の思いやこだわりががそこここに反映されていて、とても素敵なお店でした。「頑張って!」と励ましに行ったつもりが、逆に励まされたような思いで家に帰ってきたのでした。

毎日のように不穏な報道が襲い掛かってくる昨今…。世の中には、何をするにしてもつい臆病になってしまいそうな空気が漂っていまますが、何が無駄で何が失敗か、なんて考えすぎないで、いつものびやかな気持ちでありたいものです。私たちには、無限の時間を与えられているわけではないのですから。彼の新しいお店の前途が明るいものになりますように、そして、彼が、本来持っているすこやかな前向きさを失うことなく、むしろパワーアップしていってくれることを、心から願いたくなりました。

「悠々として急げ」という開高さんの言葉が、アラベスクの模様のように、反復しながら胸に響いています。繰り返されるブラームスの弦楽六重奏曲のモティーフように、深く、静かに。

(*ちなみに、このビデオ『河は眠らない』は既に廃盤とのことですが、代わりに同タイトルのDVDが出ているとのことです。)

2009年01月16日

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