第388回 一番嬉しいもの

ふと気づくと、いつの間にか箪笥の中は“財産”でいっぱいになっていて、定員オーバー気味…。いらないものは思い切って一掃して、すっきりひろびろ生活できたらどんなに気持ちがいいかしら、と思いつつも、バーゲンの声を聞くとつい反応してしまうのは、なんとも哀しい性です。洋服ならこんなにあるのに、まだ欲しいの?…という心の声も聞こえてくるのですが、そこは女心。いくつになってもおしゃれは楽しみたい、という願いもあって…(それでも、最近大分オトナになって、滅多なことでは買わなくはなってきているですが)。

話は変わるのですが、先日偶然目にした音楽関係のフリーペーパーに、ある人気ピアニストのエッセイが載っていました。お題は、コンサートの時にいただくファンからのプレゼントについて。

衣装に靴に楽譜…と、それでなくても荷物が多いので、花束を頂いてもそれを抱えて帰るのかと思うとブルーになってしまう、とか、コンサートのたびにいくつも頂く金色の箱に入ったベルギーのチョコレートは、とても一人では消化しきれないので生徒さんにすすめるも、彼らもさすがに辟易としているようだ…などの“お悩み”が、「非難を頂くのを覚悟の上で…」という前置きのあとに切々と書かれていました。「少なくとも、その日のうちに食べなければならないような生菓子だけは勘弁して欲しい」という、悲痛な叫びのような(?)訴えも…。

なるほど、頂いて嬉しいと感じるものは、人によって、またシチュエーションによって、違うのですね。(私ならその方が気持ちを込めてくださったものは何でも嬉しいし、ましてやお花や美味しいものなんて、例えトラック一台分頂いても嬉しいのだけど!)

でも、コンサートの時に限らず、頂いて一番嬉しいものがあるとしたら、それは何でしょう?…私の場合それは、手紙(メール)です。

子供の頃から、手紙を頂くのも自分が書くのも大好きです。転校したり、留学したりして友人と遠く離れてしまうのと引き換えに、“文通する”という楽しみに恵まれた、という経験も、影響しているかもしれません。ハンガリー留学時代は、日記のようにほぼ毎日、家族への手紙をしたため、一週間分ほどをまとめてせっせと送っていました。一ダースほど持っていったボールペンのカートリッジを、一年で使い切ってしまったほどです。

幸せなことに、かつての生徒さんから「音楽の奥深い楽しさを熱心に教えてくださって、ありがとうございました」…といった手紙をもらって感激したことも、しばしばあります。いずれの手紙にも感謝の気持ちを伝えたい、という思いが詰まっていて、一字一字、丁寧に書かれた美しい筆跡には誠実さが溢れ、その文章からは聡明さがにじみ出ていてました。特に手書きの手紙には、メールや印刷された文字にはない温かみがあって、愛しさを感じます(そもそも、手でしたためるからこその“手紙”なのですよね)。

また、つい先日にも特別レッスンを受けた生徒さんのお母様から「娘は、先生のお隣で弾いている時、音で頭がいっぱいになった、楽しかったと言っていました。(中略)。一番大切なことを教えていただきました」というお心のこもったメールを頂きました。お母様のお嬢様への愛情もひしひしと感じられて、胸がいっぱいになりました。

コンサートを聴いてくださったお客様が思いがけずお寄せ下さった手紙やメール、友人はもちろん、生徒さんのご父兄や恩師から頂いたメッセージの数々は、私の掛けがえのない宝物です。いいえ、宝、というよりも、生きていくうえで欠かすことができない、心のビタミンなのです。

人に何かを伝えたい、という気持ちは、手紙においてだけでなく、私の演奏の原点になっているのかもしれません。気持ちが通じ合った時、心から幸せを感じることができるのは人間に与えられた最もすてきな才能だと信じている(信じていたい)のです。

いくらおしゃれを楽しみたい、とは言っても、箪笥に入りきれないほどたくさんの洋服に囲まれて生活していたい、とは思いませんし、逆に、洋服がどんどん増えてしまう、なんて、想像したらちょっと恐怖です。(ワインやシャンパンに囲まれる生活、ならちょっと憧れるけど…)。所詮、洋服はツールの一つに過ぎないし、失ったらとても悲しくなってしまう洋服なんて、意外に少ないのです。

たまに会ったり、手紙やメールのやり取りを通して、心から親交を温めあえる友人、知人がいること、そして、そんな存在が歳を重ねるにしたがって増えている幸せを感じて、願いごとより感謝がしたくなった、七夕の夜でした。

2008年07月09日

« 第387回 ナイトキャップな一枚を | 目次 | 第389回 馬と鹿に、申し訳ない »

Home