第368回 叶うはよし

「侘び茶の世界には“叶うはよし、叶いたがるは悪しし”って言葉があるのよ。求めすぎるのではなく、それでいて少しずつ意識と努力をしながらよい時間を積み重ねて、その結果自然に“叶う”、というのがいいんですって。」先日、何年かぶりに父方の叔母とゆっくり会う機会がありました。大学時代は調布で生活していたのですが、比較的近くに住んでいらしたこともあって、当時から何かとお世話になっていた叔母です。

その日は茶道を学んでいる叔母と、上野の東京国立博物館に近衛家の名宝を見にいくことになっていました。骨董についても書についても、掛け軸のいろはについてもほとんど無知なので、色々教えてもらえるのを楽しみにしていたのもありますが、何より、叔母とゆっくり東京でデートなんて大学時代以来のこと。なんだかワクワクして、朝早くに目が覚めてしまったほどでした。

「今日は楽しみで早く起きちゃったわ。ふふふ…。なんだか、そんなに久しぶりって感じがしないわねぇ。」待ち合わせた直後、まさに私が言おうと思ったことを、叔母に先に言われてしまいました。叔母は大学時代から全然変わらないように思われてならないのですが、どうしてなのでしょう?

そういえば、高校三年の夏休みに、桐朋学園の夏期講習に参加した折にも叔母のマンションに滞在させてもらいました。「すぐ近くに巨人軍の原辰徳選手(当時)のご実家があるのよ。ちょっとお散歩がてら、いってみる?」どことなく緊張している私の様子をみてとって、叔母がこんなお誘いをしてくださったのを、よく覚えています。当時は家族全員巨人ファンでしたし、叔母の家にはピアノがなかったので、どちらにしても練習することも出来ないのだし、それはよい気分転換になりそう…と、ぶらぶら出かけたのですが、それを喜んで仙台の母に電話で報告したところ、「東京まで、一体何しに行ってるの!」と、いきなり怒られてしまったのも、今となってはいい思い出です。

大学に入ったあとも、時々美味しいものをご馳走してくださったり、面白そうな本を貸してくださったり、と、何かと文化的な刺激を頂く機会の多い存在でした。そして、叔母が落ち着いたトーンとゆっくりとした語調で話すのを聞くたび、なんだか皇族の方みたいで優雅だな、なんて思ったりしていました。そして、家に遊びに行くと決まって、食べ物やらちょっとした小物やら、持ちきれないほどのお土産を持たせてくれるのでした。

藤原道長氏の自筆の日記や可愛らしい御所人形…近衛家の素晴らしい書やら掛け軸の数々を、ちょっとした鑑賞のポイントを叔母に教えてもらいながら一つ一つゆっくりと見てまわるのは、なんとも贅沢なことでした。当時の天皇、皇族などの位の高い人々が、人並みはずれた美意識や豊かな教養、深い文化的・芸術的な素養を持っていたことに、改めて驚きました。でも、ふと気づくと二時間以上が過ぎていたのにも、びっくり…。「お腹すいたわね。何か美味しいもの、食べましょうよ。」

そうそう。こんなふうに、今まで何度、美味しいものを食べに連れて行っていただいたことでしょう。考えてみたら、イタリア料理のブームが来るはるか前――桐朋学園大学在学中――に、イタリア直輸入の石釜で焼き上げる薄焼きのピザを初めて食べさせてもらったのも、南青山の洋書専門店に連れて行ってもたっらのも叔母でしたし、ハンガリーの名高い貴腐ワイン“トカイ”の存在を教えてもらったのも、叔母でした。

この頃、千利休や小堀遠州の茶の世界について、折にふれて勉強しているのですが、侘び茶の世界は禅の思想に通じているので、深い言葉がたくさん出てきて、ハッとさせられることが少なくありません。“叶うはよし”もしかり。様々な解釈の可能性があるフレーズです。最近出会った言葉が、もう一つ。侘び茶を大成したとされる珠光の“不足の美”です。彼は「月も雲間のなきは嫌にて候」と書いていて、満月の輝く月よりも雲の間に見え隠れする月の方が美しい、というのがその心とか。それは、足りないくらいのものがよい、足りないからよい、ということだけではなく、足りないところをイメージや美意識で楽しむことこそが美しい、という意味にも受け取れます。

美しさも幸せも、それを受け止める人次第。こうでなくては、という定義などありません。色々なものにとらわれすぎずに、自然体で、いつしか“叶う”になるといいな…と、つい願ってしまうこの頃です。

2008年02月07日

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