第366回 医食同源

健康の秘訣は?という質問に「何でも好きなものを食べ、好きなお酒を飲むことですよ!」と、豪快に答えるご長寿の方を見かけることが増えた気がします。一時期は、あれを食べない方がいいだのこれを食べた方がいいだのと、テレビや雑誌でまことしやかに騒がれては、そのたびに人々が右往左往させられがちでした(その情熱を例えた「健康のためなら死ねる」というギャグ?までありました…)が、そんな風潮もちょっと一段落の観があるように思います。

好きな食べものを我慢するのは辛いものです。高校時代から高脂血症・貧血気味と診断されている私は、検査のたびに「もっとひじきのようなものを食べて、動物性蛋白質は控えてください。特に卵は、多くても二日に一個程度にして…」と指導を受け、どんなにブルーになったことか。だって、すでにひじきなら人一倍食べているし、動物性蛋白質なんて人の半分も採っていないのに。でも、どんなに食生活に気を配っても、数値は変化なし。逆に、卵(実は大好物の一つ。毎日3~4個食べても平気、という体質になりたい…)を毎日一個食べても変わらないことがわかって、最近はもう開き直っています。

好きなものを適度に体に取り込むことが体に悪いなんて、やはり考えにくいのです(正確いうと、アタマでは考えられなくないのですが、カラダが感覚的に納得できないのです)。好きなもの、というのは何も贅沢なものではなく、体が無意識に欲しているものなのですから、きっと生きていくうえで意味があることだと思うのです。ほら、妊娠すると体の状態がかわるのに伴って食べ物の好みが変わったり、疲れているときに糖質をとりたくなったりしますよね。体は、ある程度自分で問題を解決できるちからを持っているような気がします。神経や心が疲れていれば、音楽が好きな人なら音楽を聴いてダメージをメンテナンスするるし、お酒が好きなら適量を飲んで“治癒”することができるのではと。

医食同源、という言葉が昔からあるように、人が意識を持って摂取する食べ物やその摂取の仕方は、とても大切です。ただ、体にいいとされるから、だけでなく、それが好きだから、たくさん楽しんで食べて飲んでいれば、きっと元気(=人間が「元」来持っている、前向きな「気」持ちや「気」合いが体に満ちる!)になることでしょう。「金は薬屋で使うより、肉屋で使うべし」というのは、イタリアの格言だったでしょうか。

食べることも歌うことも大好きだった祖母が、晩年その両方の楽しみを奪われながらも、心静かに介護施設で残りの時間を穏やかに過ごしていたことを、しばしば思い出します。随分前に喉を痛めてから、思うように歌が歌えなくなってしまったのは仕方のないことですが、亡くなる何年も前から、とうとう一度も家庭料理を口にすることなく他界してしまったのは、本当に気の毒なことでした。それでも、病院の食事のようなお三度に文句を言うこともなく、それどころか周りに気を遣ってか「ここの食事はとっても味付けがいいのよ」とすら言っていたほどでした。ただ、食欲は日に日に衰え、小さな茶碗に出されたわずかなお粥も、とても全部は食べられなくなってしまいました。

料理の味付けがよかったとしても、食事にはその他の様々な要素が影響するものです。誰がどんな気持ちで用意してくれたのか。どんな器で、どんな温度で出してくれたのか。それを、誰と、どんな会話をしながら頂いたか…。毎日のことですから、食材にこだわりすぎたり、特別手の込んだものである必要はないと思うのです。むしろ、気が重いのを無理してしまっては、演奏する人の気持ちが音に反映するように、億劫な気持ちがどこかから伝わってしまうのではないでしょうか。遠足の時、母が持たせてくれたおむすびが、どんなに美味しかったことでしょう!外で食べる開放感、友達との談笑…幸福感とともに頂く料理は、どんなものでも最高のご馳走になります。

もしそれが、心のこもった温かい家庭料理だったら…。食べる楽しみが励みになって、祖母も、もっと食べられたのかもしれない。そして、もっと生きられたかもしれない。そう思うと、なんだか申し訳ないような気持ちになるのです。もっと私にも、できることがあったのでは、と…。

この頃、「食育」という言葉をよく耳にします。2005年には食育基本法なる法律まで成立して、様々な経験を通して食についての意識や知識を持つこと、または子供たちに持たせることが求められてきています。よいことに違いないはずなのですが、それをシステムにしてしまうことには何か落とし穴が潜んでいるような気がしてしまうのは、私だけでしょうか。

2008年01月24日

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