第362回 器用さも器量もなくっても

今では人並み程度にお料理もするし、ちょこちょこと何かをするのがそれほど苦でもない方なのであまり言われなくなりましたが、かつては周囲の人から「不器用だ」とよく言われていました。

確かに、お裁縫は未だに苦手。刃物を扱うのも下手で、高校生くらいになるまで「美奈子が包丁を持つのは、危なっかしくてみていられない」と、ろくにナイフも持たせてもらえませんでした。ついでに言うと暗算も苦手で、二つ年下の妹の方がいつもはるかに早く、しかも正確に答えを出していました。「私は不器用なんだ…」いつのまにかそう、インプットされていました。

そういえば、なんでもないような指の練習の教則本『ハノン』も苦手で、思ったように弾けなくて泣きべそをかきながら練習していたことも一度や二度ではありませんでした。「え~?美奈ちゃんが?信じられない…」幸か不幸か、それを言っても周りはなかなか信じてくれないのですが。

九九を暗記するのも給食を食べるのも遅かったし、妹と違って運動神経も悪かったし…。みんなが大好きなドッジボールは、私を最高にブルーな気分にさせるゲームでした。だって、わざと相手が受けそびれるようなボールを投げて、友達とボールをぶつけ合うなんて!そんな乱暴なプレイの何が楽しいというのでしょう。どうせなら“ぶつけちゃった子の負け”みたいなルールにすればいいのに…。私はというと、指を怪我するのが怖くて、おどおどしてかえってつき指ばかりしていました。

今思うと小さい時にはたくさんのコンプレックスを抱えていました。そんな私を奮起させようと厳しい言葉で発破をかける父、あまりうるさく言わずに聞き役に徹していた母…。両親の対応は今思うとかなり両極端でしたが、それがかえってうまく機能してくれたのかもしれません。コンプレックスは年々、自然に薄くなっていったようです。

不器用なのだ、と認識していましたが、器量が悪い、とは言われたことがありませんでした。手先の巧みさ、賢さ、という意味をさす“器用”に対して、“器量”は才能、ひいては容姿の良し悪しを意味する言葉ですが、その二つにはそれほどの差がないような気がします。おもしろいのは『器用貧乏』とか『器量負け』のように、どちらにもその言葉の落とし穴のような複合語(?)が在ること。

もともと器という意味には、材――役立つもの、能力のあるところ――という意味があるそうです。(とすると、“楽器”とは「楽しさに役立つ道具」、ということ!)それでは、器量があるために失敗するという“器量負け”とか、器用であがゆえに陥りやすい“器用貧乏”とは、どういうことなのでしょう?

例えば、ベートーヴェンやシューベルト、ゴヤやゴッホは誰もが認める天才ですが、彼らに対して“器用な人だ”というイメージを抱く人はほとんどいないのではないでしょうか。自らの世界観を形にするために、あるときは自殺したい心境にまで追い込まれたり、愛する人に理解してもらえない苦しみにもがいたり…。そんな中にあっても決して自分をごまかしたり騙したりせず、誇りを持ってまっすぐに生きてきたからこそ、生まれたのが彼らの芸術作品ですし、だからこそ広く人々の共感を得るのでしょう。

逆にスマートに、器用に生きているような人はたくさんいるような気がします。要領よく立ち振る舞い、周りに認めてもらいやすいアピールを心得て、評価を積み重ねていくことのできる人。世の中で言うところの“出世する人”は、間違いなくベートーヴェンよりもそちらのタイプの方々です。でも、なぜか憧れないのです。憧れないから、目指せない。目指せないから、そうならない。そうならないのが、いやでもない。

こんな私は、社会的にはあまり正しい大人ではないのかしら…、と、ふと不安になる時もあるのですが、いかんせん、次の瞬間には「ま、このようにしか生きられないものは仕方ない!」。おかげで(?)私に近づいて下さるのは、損得や利害などとは関係なく、心から私に興味を持ってお付き合い下さっている方ばかりです。ああ、なんてありがたいことでしょう。

年賀状のリストを作りながら、改めて思うのです。「こんなに大切な方々に恵まれているのだから、これ以上の“材”を求めてはバチがあたるというものだ」と。

でも器用じゃないゆえ、年賀状書きはいっこうに進まないのでありました…(やっぱり、要・反省ですね)。

2007年12月22日

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