第359回 「術」ではなく「道」を歩む

来る日も来る日もシューベルト三昧です。日本人元来の気ぜわしさ、忙しさにまみれて心に余裕のない状態などがあっさり否定されるような、息の長い、そしてえもいえぬ美しいフレーズに悪戦苦闘しながらも、シューベルトの世界に触れる喜びも感じています。弾くほどに、「この人の体の中には、禅的な悟りの思想が存在していたのではないか」という気がしてきてなりません。

海外に身を置いた時に、改めて日本について、あるいは日本人としての自分について何やら感じることがままあるように、毎日西洋音楽に接していると、和の心や日本の芸術文化について、つい考えてしまう瞬間があります。

そして、日本の伝統な文化やその伝承に携わっていらっしゃる方の言葉に、逆になるほど、と、教えられることが多くあることに気付くのです。私の場合はそれが禅僧や世阿弥の言葉だったりするのですが、先日、日本が誇る茶懐石の料理の世界の第一人者、故・辻嘉一さんの言葉にはっとさせられました。

「術と道ということばがあります。/同じ剣を使うにも、剣術は邪(よこしま)なものを破るための、巧みな剣さばきというようなもので、敵をたおすため…という目的の手段として考えられる剣でありましょう。/剣道の剣は、自らも生き、他をも生かすこと、それ自体が目的ともいえるものであろうと考えているのであります。/茶道といい、書道といい、茶に、書に没頭して、そこに自らも生き、他も生かそうとするものでありますが、決してお手前を人によく見せたい…上手な字を書いて人に見せたい…なだおという邪心があってはならないものでえあります。/~中略~道は術の上位にあってこそ、はじめて道といえるのではないでしょうか。」

辻嘉一氏は、手段や行いがそのまま目的であるという考えに立って、一切の行いがそのまま仏への悟りの道である、とみる禅の思想について、著書『料理嘉言帳』の中でこのように述べていました。

術の上に立つ、道…確かに日本は本来、「道」を極めようとする国です。最近、古武術の合理性が見直され、例えば老人を介護する人が古武術を身につけると、格段に体の負担を軽減できる…と、ちょっとしたブームになっていますが、これは“手段(古武術)と目的(体の負担軽減)の不一致”が許されるのが「術」である、という一つの例でしょう。手段と目的とを別々に分けることを否定する、禅における「武道」とは異なる部分です。辻氏はこの短いコラムの中で、「目的のために手段を選ばず」という言葉、ひいては人々が“「平和のための戦争」という奇妙な論理に踊らされた”ことによる悲劇についても触れていました。

武道のみならず、茶道、書道、華道といった「道」には、確かに小手先ではなく、精神性の大切さがなにより重んじられるようなニュアンスが、強くあるように感じます。

ところで、なぜ芸道、ではなく芸術なのでしょう。芸術こそ、本来は「術(すべ)」を越えて、精神もろとも精進していく部分が大事な分野だと思われるのですが…。調べてみたら、「芸道」という言葉はきちんと存在しているのです。そのココロは“技芸や芸能の道(広辞苑)”(ううむ、今ひとつピンと来ませんが)。

「術」を身につける、となると、確かなテクニックに裏づけされた、人を打ち負かす“すべ”を極めるような印象になりますが、「道」を歩む、ということだったらもっと自然体で一生取りくめるような気がしてきます。

コンサート前のこの時期、猫の手も借りたいほどやることが山積みで、つい一日をバタバタと過ごしてしまいますが、あくせくばかりしていて肝心の気持ちに余裕がなくなってしまっては、「道」にはずれてしまいます。「『忙』の字は、心を忙(うしな)うというくらいで…」生前、辻氏もおっしゃっていました。そう考えるにつけ、31年という短い生涯の中で1000曲を軽く越える作品を書き上げながらも、その音楽や人生にまったく『忙』を感じさせない、シューベルトの「歩み」の深さに、驚きと感動を禁じえないのです。

一石一丁とはいかないけれど、これからはゆっくりと芸道家、音道家(?)を歩んでいくことにしよう…。

2007年11月15日

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