第353回 ピアノ弾きのランデブー

ピアノの出会いを思い出すと、二つのキーワードに突き当たります。一つは“母”、もう一つは“シューベルト”。母が弾くシューベルトを聴いたのが、ピアノに興味を抱くきっかけになる出来事だったのです。

その時のシューベルトの曲は、今でも覚えています。『即興曲作品90-4』。幾度も繰り返される高音部から流れ星のように落ちてくるパッセージ、それを支えるバスパートや、愁いをおびた和声の響き…ようやくつたえ歩きができるようになったばかりの私にとって、それは衝撃的な世界でした。当たり前ですが、それまで聴き馴染んでいた童謡や子守歌とはまったく違うものを感じ、一方では両方に通ずる親しみやすさも垣間見られて、ピアノという楽器に、瞬時に恋に落ちてしまったのです。

以来、30年以上にわたって、私とまさに苦楽を一番共にしてきたのがこの楽器です。演奏会では、弦楽器奏者や管楽器奏者の人たちがいつもどこででも“マイ楽器”で演奏できるのを横目に見ながら、会場のピアノといつもその場限りの“一夜の恋”のような関係を築いていかなければならないピアノ弾きの宿命を、随分長い間恨めしく(?)思ってきたのですが、この頃はなんだかそんな宿命を負っていることを楽しめるようになってきました。

アップライトのピアノしかない会場の時もあれば、調律していないピアノを弾かなければならない本番、調律はしてあるものの普段あまり弾かれていないために充分に鳴ってくれないピアノとのセッションが要求される時…色々です。以前は自分が少しでもいい音で、いい演奏を聴いて頂かなくては、という強い思いから、自分の準備も当日の楽器についても、かなり神経を使って気にしていました。でも、自分の準備を万全に行うのは当然のことですが、楽器にすべてを求めるのは所詮、無理というものです。私も相手のことを知らないけれど、相手も私のことを知らないのですから!

この頃は、リハーサルでの音だしの時、「よろしくね」という気持ちで、初めはあえて控えめに鳴らしてみるようにしています。私のタッチや音に対するイメージを伝え、慣れてもらい、少しずつ心を開いてくれるよう様子を伺いながら…。初めての相手に対して自己紹介をする場面で、いきなりくだけ過ぎた態度をとってはかえって相手がひるんでしまうように、初めはある程度の“節度”をもって接しないと、どうもうまくコミュニケーションがとれないような気がするのです。ワインも、コルクで栓をされて何年も経た“酸欠”状態になったいるものが、開栓してしばらく時間をおいたり、デキャンタージュして空気に触れさせることで香りや味わいが“ひらいて”くる、という表現をするようですが、まさにそんな感じになるのを待つようなイメージです。

あまり良い喩えではありませんが、もし家族が何かの因果で体の一部が不自由な状態だったとしても、それは家族にとって決定的な“マイナス”にはなりえないのと、少し似ているかもしれません。相手が“完全な健康体”であるのに越したことはありませんが、そうでないからといって家族の絆はまったく変わらないし変わるべきではないように、相手の楽器が完璧な状態ではないからといって、態度も気分も揺らいでしまうようでは一人前とはいえないのではないかと思ったり…。

考えてみたら、私が一瞬にして電撃的に“やられて”しまったあのシューベルトも、決して理想的なコンディションをはいえない小さな部屋で、しかもアップライトのピアノで、さらにお世辞にも上手とはいえない(失礼ながら!)母のつたない演奏による出会いだったのに、そんな悪条件(重ねて失礼!)をひょいと乗り越えて私を感動に至らしめてしまったのですから、不思議なものです。ちなみに、その頃の私の目標は“母のようにピアノが弾けるようになりたい”でした(失礼な発言のフォローみたいですが…)。

先日、レッスンで私より年上の生徒さんと、旅のお話になりました。「一番楽しかったな、と思うのは、旅のスムーズにいかなかった部分だったりするんです。お天気が悪くてひどい雨に降られたりしても、なぜか後から思い出すとそれが掛けがえのない思い出になっていたり…。どうしてでしょうね?」生徒さんはそう話した後、スペインの田舎でファームハウスに泊まったときの宝物のようなハプニングを聞かせてくださいました。

人間は完璧にオーガナイズされたものよりも、どこかに“自分”の居場所を感じるようなスペースのあるものに、居心地のよさを感じるのかもしれません。そういえば、先日両親と一緒に泊まった那須高原の宿泊施設では、施設内の案内が極力なくて、それが敷地内を“探索”する楽しみにつながったり、離れのような造りでありながら隣との境や塀がなかったり、あえて庭園を造りこみすぎないようにする(でも、実は細部に至るまで手入れは行き届いているのですが)演出で、宿泊客が存分にリラックスできるよう無言で促していました。

シューベルトの音楽は、決して緻密に作りこまれているわけではないけれど、聴く人に対してまさに“ひらかれて”いるのでしょう。そして、心を“ひらいて”いる人に対しては、多少諸条件が悪くても、その穏やかで幸福なひびきや大河のように豊かな音楽の流れを惜しげなく体感させてくれるのです。弾き手としては、“作りこんでいなかのようで実は細部に手入れが行き届いている”、という部分をクリアするのがとても難しいところなのですが。

そう考えると、その場限りのランデブーを強いられる(?)ピアノ弾きにとって、シューベルトはまさに格好の“お題”なのかもしれないな、という気がしてくるのです。

2007年09月28日

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