第349回 森にかえりたい

病院は苦手ですが、待合室でお母さんが子どもに絵本を読み聞かせている姿をみると、とても心穏やかな、幸せな気持ちになります。完璧な美しさ、というものがこの世にあるとしたら、きっとこういう光景のことをいうのではないかしら…。そんな時、お母さんはマリアさまのように、そして膝の上の子どもは天使に見えてくるのです。そして、自分もかつて母の膝の上で充分すぎるほどにそういった至福の時間を与えられていたことを想い、感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。

昨年亡くなった児童書の翻訳と創作の第一人者、渡辺茂男さんの本『心に緑の種をまく(新潮文庫)』のあとがきに、ご長男の鉄太さんが、こんなことを書いていらっしゃいました。

「物語とは、語られるものです。その物語は、本になるために標準語に直されて活字になると、いったんは命を失うのかもしれません。でも、その本をお父さんやお母さんが手に取り、膝に座った子どもに読んでやる時、命を吹き返すのです。標準語で書かれた本でも、例えば静岡出身のお父さんが読んだら静岡弁のアクセントで読まれます。ぼくの父は静岡の人ですから、父が読むとセンダックだってグリムだって『遠野物語』だって静岡の話みたいになってしまいます。でも、ぼくはそういう父の語った物語を今でも愛しています。」

この中の言葉を一部、他のものに置き換えると…。「音楽とは、奏でられるものです。その音楽は、楽譜になるために音符に直されると、いったんは命を失うのかもしれません。でも、その楽譜を演奏家が手に取り、人々に聴いてもらう時、命を吹き返すのです。外国語で書かれた楽譜でも、例えば日本の演奏家が弾いたら日本のアクセントで弾かれます…」

日本人が弾けば、バッハもモーツァルトも、どうしてもどこか日本の音楽みたいに響くものですが、心のこもった、ぬくもりの感じられる誠実な演奏であれば、聴く人はそれを愛するのかもしれません。逆に、いくらドイツ語やオーストリア風のアクセントをマスターして、日本人であることを微塵も感じさせないほどに完全に発音を“同化”できたとしても、それが聴き手の深い共感を得るものになるとは限らない…。難しいものです。

「子どもの時に聞いた物語は、心の中にある故郷であり、森のような場所なのです。」鉄太さんはこう続けています。まさに私にとっての音楽は、ちょうどそんな心のふるさとです。コンサートでたくさんの子どもたちに聴いてもらう機会には恵まれていますが、ホールや学校のような場所ではなく、お母さんの膝の上のような、心からくつろげる、温かなところでリラックスして聴いてもらえたら、きっともっと違うものになるのだけれど…。何より、子どもたちがそれぞれに自由に遊べる森を持つお手伝いが出来たら、どんなにすてきでしょう。

でも、そんな“森のような場所”はいったいどこにあるのでしょうか?茂男さんは著書『子どもと文学(福音館書店)』のなかで、こう書いています。「私たちは、平和を望みます。個々の人間にとって、具体的に平和の意味するものは、衣食住の確保です。昔話の中に出てくる森の中の一軒家は、外敵の襲来から、また自然の驚異から身を守る私たちの本能の象徴です。(中略)森の小屋は、平和を、あるいは未来への可能性を意味しているからです」

森のような場所も、森の中の小屋も、きっと私たちは心の中に持っているのです。ただ、大人になればなるほど、見失いがちになっているような気がします。「モーツァルトのアクセントはこうじゃなくては」「バッハの時代背景を考えたら、ここのアーティキレーション(奏法)はこうあるべきでは?」…幸福と平和の象徴はこんなふうに、現実的な仕事や論理に追われて、ついないがしろにされてしまうのです。

勿論、芸術音楽には様々なアカデミックな要素を踏まえる必要があります。でも、児童文学の翻訳と芸術音楽の演奏を比べると、その二つはとても類似しているような気がします。「翻訳者は、絵本の形で表現された一つの世界を、くまなく理解することが要求されます。いいかえれば、言語感覚と視覚と感性のすべてを働かせて、その世界に入ることを要求されるのです。文章を読むだけでなく、絵と心象をくりかえしくりかえし読むうちに、血の通う人物に出会い、個性をもつ人の話し声が聞こえ、動物や鳥の言葉や鳴き声がわかり、木や花の香りが匂い、すべての生物の感情が伝わってきます。」茂男さんの言葉から、音符を追いかけるだけでなく、人のもつすべての感覚を総動員してこそ、宇宙のように大きな音楽の世界を表現することができるのだ、そういう演奏こそが聴く人を森にいざなうことができるのだ、と、教えていただいたような気がしました。身が引き締まるおもいです。

森にかえってもらえるような時間を提供できるピアノ弾きに…いつか私も、なれるのでしょうか。

2007年08月29日

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