第328回 上か下か、それが問題だ

そのとき私は、常磐線の泉駅で、上野行きの『スーパーひたち』を待っていました。2時間ほど前に、夏に開かれるピアノコンクールを受ける生徒さんを指導するピアノの先生方を対象とした、課題曲のレクチャーコンサートのお仕事が終えたばかりでした。弾いたり説明したりした課題曲の数20曲!二時間を越える時間、休憩もとらずに一気に話して弾いて…。カラダよりも頭がちょっと疲れているのを感じながら、ホームでぼんやり、温かな春風に吹かれながらぼんやりしていると、ピアノに向かってテンパっていたのは随分前のことだったような気がしてきます。

船をイメージしたようなモダンなデザインの、数年前に新しく建設された立派な駅の建物に似つかわしくないような小さなホームには、一組の家族連れと、ご夫婦らしきお二人がいらっしゃるだけ…。やがて放送が流れます。「まもなく○番線に上りスーパーひたちがまいります。黄色い線までお下がりになって…」

「ノボリって何のこと?」恐らく同じ車両に乗るのであろう、すぐ隣で同じように列車の入線を待っていた家族連れの中の、小学生らしき男の子が母親にたずねました。「東京へ行くのがノボリ、なの。こっちに帰ってくる時はクダリ。」私はフムフムとお母さんの説明を聞きながら、「でも、東京から名古屋や大阪に行くのは下り、そのくせ大阪は“上方”というのよねぇ…」と、心の中でつっ込んでいます。「大体、どうして上下なの?なんだかそれって…」ふと、太平洋側を“表”日本、日本海側を“裏”日本、と呼んでいた頃があったのを思い出しました。

裏表、という呼び方はどうにも差別的である、ということで大分前に撤廃され、今は“太平洋側”“日本海側”と呼ばれるようになりましたが、上り、下り、というのはどうなのだろう?(関係ないけど、山手線の“内回り”“外回り”にも、未だに頭がこんがらがっているのですが…)勿論、これは慣用的・便宜的なものなので、もう今さら誰もそれを“差別的”、“権力的”だなんて目くじらたてたりしないのかもしれませんが、私はどうも最近、この手のことに引っかかるものを感じてしまって困っています。日本はどうしてこう、裏表、上下、という整理の仕方をする方向にいってしまうのでしょう。

「ねぇ、課長と部長では、どっちがエラいの?」そういえば昨日、春休みで実家に遊びに来ていた甥っ子が、朝の食卓で母に聞いていたっけ。どっちがエラい?どっちが上?…私としては、「地位としてはどっちが上、っていう立場があるけれど、それはその人の人間としての価値とは必ずしも関係ないの。地位が高くても人を思いやれなかったり感謝の気持ちを持てなかったり、不正をしている人はちっとも偉くないし、地位が低くても立派な人は沢山いるのよ」と説明をしたいところだけど、そうすると今の子供は“高み”を目指して頑張らなくなる、という指摘もあるとか…。

別にいいじゃない。そんな、実体のはっきりしない“高み”なんて目指さなくなっても…と、思ってしまう私は、教育者として失格なのでしょうか?音楽を通して教育に携わっているからこそ、子供たちには、志が高く思いやりに溢れた、本物の“偉い”人を目指して欲しいという気持ちが強いのかもしれません。だからこそ、何が偉くて、本当に幸福で素敵な生き方って何なのか、を、きちんと伝えなくてはと思うのです。きちんと時間をかけて向き合って話せば、子供は必ず理解することができるはず…。話し聞かせるだけでなく、それを彼らに感じとってもらえるような大人でいたい、と願っているのですが。

それにしても、本物の偉い人って、どんな人だろう?…私にとってそれは、常に向上心をもって努力し続けながら、他人に対する思いやりを決して失わない人。いつも笑顔で、周囲の人を明るい気持ちにさせることのできる強さと豊かなユーモアを持ち、本当の信頼関係を築いていける人。そして、確固たる信念と、子供のように無邪気で柔軟な感性の両方を持っている人、でしょうか。…そんな人を目指して生きていくことが、私の幸せなのだろうな、…なんて考えながら、常磐線の車窓から、きらきら光る穏やかな春の太平洋の海岸を眺めていた私です。

2007年03月29日

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