第310回 江戸の誘惑

東京は、すごいところです。毎日、百以上のコンサートやらありとあらゆるイベント、演劇や展覧会の類がそこここで行われ、そのいずれもがある程度のお客様に満たされている状態なのですから…。いくらパリやロンドンといえども、ここまでではないでしょう。これに匹敵する都市と言えばニューヨークぐらいなのではないでしょうか。

学生時代、珍しく男性からデートに誘われ映画を見に行ったら、入った映画館がいっぱいで「立ち見」になってしまったことがありました。地元では経験したことのないこの不慣れな事態に(今考えると、不慣れだったのは「立ち見」よりも、むしろ「デート」自体だったという気が…)、貧血の症状のようにふらふらして気持ち悪くなってしまい、映画を半分もみられないで出てしまったことがありましたっけ。

世界中の美術館からのすばらしいコレクションによる展覧会も頻繁に開かれていますが、ネックは人の多さです。チケットを買うだけで40分、入館までに一時間かかった、という話も珍しくありません。それで、数ヶ月前に催されていた北斎展の折は腰が引けて、とうとう見逃してしまいました。思い起こしては後悔していた矢先に、友人から江戸東京博物館で催されている、ボストン美術館所蔵の浮世絵展――その名も『江戸の誘惑』――へのお誘いを頂きました。実は、自他共に認める江戸時代オタク(?)の私。特に浮世絵は大好きですし、北斎展のリベンジ(これも、最近、本来とはちょっと違ったニュアンスで使われる機会が多くなった言葉の一つですよね…)もあるし、二つ返事ででかけました。

それは明治時代に来日したあるアメリカ人が買い集めた肉筆の浮世絵の数々で、実に一世紀ぶりにして初めての里帰りとのことでした。このアメリカ人による肉筆の浮世絵コレクションは、なんと700にも及ぶことがつい最近の調査で判明して、大変な話題になったとのこと。まず驚いたのは、コレクションの高いクオリティー、作品の状態の良さと、版画とはまったく違う色彩感でした。その鮮やかさたるや、昨日完成したものだと言われても信じてしまえるほどです。歌麿、広重、そして北斎…。日本でもそうそう見る機会のなかった極上の作品を目の当たりにして、逆カルチャーショックのような状態に陥ってしまいました。

なかでも特に惹きつけられたのは、北斎でした。そのユニークな観点、力強さ、迷いのないタッチと独特のユーモア…。その作品にはどれも、開放された魂や自由でポジティブな精神が息づいています。“魅力的”とはこういうことなんだ!…とうなってしまいたくなる子供のような屈託のなさ、人間味の豊かさに溢れ、もうメロメロになってしまいました。

北斎に限りませんが、描き出されている人々の、お洒落で粋な様子ときたら!…美人画の一つ一つに、季節の花やら木の枝が必ず描かれているのも、なんともオツです。今の日本に少なくなってしまった豊かさを感じ、なんだかちょっと羨ましくなってしまいました。…と、同時に、日本人であることの誇りや、自分の道をのびやかに、悠々と愉しんで生き抜くことへのエールをもらったような気もしました。こんなふうに時空を超えて、見る人、触れた人にメッセージを明確に伝えることのできる芸術って、やっぱりすごい!上手な絵師は沢山いても、こんなに魅力溢れる芸術家は稀なのではないでしょうか。先日みた『ダリ回顧展』におけるダリの作品群を軽くしのぐほどに、強烈にして鮮烈な印象を受けました。

この頃、思うのです。芸術とか作品、というのは実はツールでしかなくて、一番肝心なのは、その表現者の「人となり」なのではないか、と。作品を通じて、私たちはきっと、絵や音で表現された“その人”に触れ、共感するのではないでしょうか。演奏は作品と違って、基本的には形のないもの、残らないものですが、だからこそ、ただ評価だけを求めて、抜け目なく完成度の高いツールの作成だけを目指すのではなく、触れた(聴いた)人に温かさ、豊かさ、愉しさを感じてもらえるような、“表現”に耐えうる「人」になることを目指していたい…。

人は人を求め、人を支えたり人に支えられたりすることを生きがいに生きるものなのではないでしょうか。芸術とは、そんな当たり前のことを形にすることなのかもしれません。…なぁんて、ちょっと気障かな?(ところで、“気障”って江戸時代的には“粋”の反対で、もっとも野暮ったいものとされていたとか…)

2006年11月23日

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