第303回 回顧しないダリ

つい先日、大好きな友人に誘われて『ダリ回顧展』なる展覧会に行きました。平日の夕方だったというのに、会場は若い人たちでいっぱい!…人の頭と頭の透き間から必死に作品を追いかけました。

生涯の中で作風を何度も変える芸術家は少なくありませんが、ダリもそんな一人。絵画だけでなく、映画という媒体にも興味を持っていた彼は、晩年『アンダルシアの犬』という作品を自らプロデュースしています。

驚いたのは、ヒッチコックの映画『白い恐怖』との関わりについて。この作品はハリウッド映画には珍しく(といっても、ヒッチコックとしては得意分野なのですが…)、心理的恐怖をフロイト的な観点から描き出したサイコサスペンスで、グレゴリー・ペックがある事件によって病んでしまった精神を抱える医師、という難しい役に挑戦していたり、最も好きな女優であるイングリット・バーグマンがその相手役を演じていることから、私にとって忘れえぬ映画の一つなのです。特に印象に残っているのが、グレゴリー・ペック演じる医師のトラウマを明かす、重要な“夢”の描写シーン。あまりの不気味さに強い衝撃をくらい、人一倍怖がりだった私は、その日は恐怖で眠れなかったほどでした。そのシーンの美術担当は、他でもないダリだったのです。

彼の絵には、どれにも徹底した自己追及、挑発的なまでの大胆な構図やら子供のような自由さ、そして前向きな狂気(?)が入り混じり、見る人の脳みそをぐちゃぐちゃにしてしまう強さに満ちています。おまけに、毒性をも魅力にしてしまう伸びやかさがあって、そのどれもが“迷いのなさ”に支えられているように感じました。作風における過渡期のカオスにある頃の作品にすら、“迷っている状態を迷わず表現する”潔さのようなものが感じられるのです。言葉が少々悪いのですが、その様子はまさに“やりたい放題”。85歳という天寿を全うするまで、その筆は動きを止めることがありませんでした。

「疲れたね。人が沢山いたのに、すごく濃密な、強いエネルギーを直接もらったような感じがする…」見終わったとき、友人がいいました。本当にぐったりでした。芸術の世界においては、心地よいものが良いものとは限りません。それでも、良いものには人の心を動かしえる絶対的なエネルギーがあって、私たちはそれに触れる喜びや、それらから与えれらる豊かさ、その素晴らしさを体のどこかで潜在的に理解しているのです。

表現において“迷い”というのは、実は“未熟さ”よりずっと好ましくないものなのかもしれません。迷ってはいけない、ということではないのです。それを否定してはいけない、ということで…。何と言うか、迷っている自分を受け入れ、それもよしとしてしまえばいいのです。要は、一見“負”と思われる部分も、さらけ出してしまえるかどうか。逆に、そんなリアリティーなくして芸術表現を追及することには、無理があるのではないでしょうか。

実はCDのテイクを決めるにあたって、数曲において「ノーミスで弾いているけれど無難な演奏」と「ミスはあるけれど自分としてはのびやかに弾いている演奏」のどちらを選択すべきなのかを決めかねていたのですが、ダリにその答えをもらったような気分です。

自分の生き方についてしばしば迷ったり、よくないと分かりつつも過去をつい、振り返ってしまいがち(こう見えても…!)な私にとって、この展覧会は愉快な刺激になりました。生誕100年を記念しての『ダリ回顧展』ということですが、私から見れば彼は、あの、恐ろしく強いまなざしで常に前を見据えて生きる“回顧”することのない――“回顧”という言葉のもっとも似合わない――アーティストのような気がするのです。

あ、でも彼には10歳年上の最愛の妻ガラ夫人、というもう一つの大きな(最強の!)支えがあったのでした。う~む、さしあたってそのへんから、改善していきたいわぁ。

2006年10月05日

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