第291回 オーガニックな存在に

カレイの煮付け、八宝菜、カキフライや冷やし中華…。幼い頃には、食べることはできても本当はちょっと苦手…というメニューが結構ありました。その理由はそれぞれ、カレイの煮付けは骨があって食べにくい上、甘辛い味が子供の私にはどっちつかずだったから。八宝菜は生姜の風味があまり好きになれなかったので。カキフライはかじった時に見てしまった“断面”の得体の知れない“模様”にやられて。冷やし中華は、甘酸っぱいたれが、のどに引っかかる感じがしてコワかったから、でした。

それが、年月を経るほどに自然にどんどん克服され、今では食べたことのない料理も、どんな味なのか想像しては「食べてみたい!」、ヘタすると「作ってみたい!」気分に襲われているのですから、人間は成長(食い意地だけ?)するものです。

10代、20代の頃に好きだったのは、肉料理や乳製品。30代になると肉を魚が追い越して、今日では特に、何といっても旬の野菜や穀物に豊かな滋養や美味しさを感じるようになりました。

実家では父が趣味で菜園を作っているのですが、完全無農薬で作った採れたての野菜はおいしさはもちろん、見るからにみずみずしさや力強さ、色や形の美しさ(カタチが揃っている、とか、ひび割れがない、とか、そういう商品としての基準での美しさではなく、植物本来の、という意味での)が違います。目には見えないけど、栄養素や体への働き方にも、間違いなく強いものがあるはずです。

バブルの時代には、季節はずれの果物を高い値段で買ったり頂いたりすることを“贅沢なこと”と捉えていた感がありますが、最近では旬ではない時期にどんなに技術を駆使し、コストをかけて野菜や果物を作って高級品として扱ったとしても、それを受け止める人々の意識は以前とは変わってきているような気がします。どんなに高価で希少なものかよりも、どの産地の、どの程度安全なものか、といったことが重要視されるようになってきているのは、誰の目にも明らかです。

年齢をかさね、食べるもの(飲むものも!)の許容範囲がどんどん広くなって、食への感心も興味も大きく膨らんできています。一方で、ただお腹を満たすだけではなく、体の健康のために、そして心の満足のために、意思を持って食べ物を選び、摂取することが、今の私にとっての“贅沢なこと”になっています。

音楽も他のアートも、そんな心と体の滋養になるものであってほしいし、本来はそういう存在であるはずのものではないだろうか、という思いが、この頃沸々と心にわいています。ゴージャスな場所におしゃれをして出かけ、体験するコンサートや美術館も、有名シェフのお店に「たまには!」…と、ちょっと身構え、張り込んで(?)でかけていくみたいに、新鮮な刺激があって素敵なものです。でも、音楽やアートがもっと日常の生活の中にあって、そっと心や体を支えになってくれるようなものであったら、どんなに人生が豊かで温かなものになることでしょう。

バッハのミサ曲やベートーヴェンの交響曲といった芸術作品の数々や多くの巨匠の存在は、人類の宝です。でも、人生において本当に大きな影響を受けるのは、実はそんな偉大なものとは限らないのではないでしょうか。私の場合、それは両親からの愛情だったり、友人が個人的に弾いてくれた演奏だったりするのです。

心から信頼して、安心して美味しく摂取し続けることができるオーガニックな野菜のような、素朴で生命力豊かな滋味あふれるピアノの小品に、最近出会いました。シベリウス、パルムグレン、メラルティンら、フィンランドの作曲家の作品です。周りの人々の日常生活をうるおしたり温めたりしてくれるようなそれらフィンランドの音楽を、是非学んでみようと思っています。

オーガニック(有機的)という言葉には「基本的、根本的な」という意味の他に「多くの部分が集まって一個の物を作り、その各部分の間に緊密な統一感があって、部分と全体とが必然的関係を有しているさま(広辞苑)」という意味もあるそうです。

2006年06月23日

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