第282回 温かさを伝えられたら

先週の日曜日は、生徒さんの発表会でした。会場のティアラこうとう(東京都江東区)に入る前に、まずはしっかり会場近くの洋食屋さんで腹ごしらえ。…ところがカウンターには親父さんだけで、ママさんの姿がありません。おかしいな、と思ったら「いやね、先週、おかぁちゃん倒れちゃったんだよ」とのお話しが…。「あまりみんなには話していないんだけどさ…」この親父さんはもう18代続いている生粋の江戸っ子です。「脳のほうでね。3回目の発作の時には、さすがにもうだめかと思ったけど、奇跡的に“絶対安静”を条件に一日で退院させてもらえてね」でもママさんのお母様が糖尿で動けなくて、ママさんが介護をしなければならない立場でもあるので、なかなか“安静”というわけにはいかないようなのです。

この前お邪魔した時にはちょうどWBCの日本と韓国の野球中継中でした。食事を終えて営業時間を過ぎた後も、奥のお部屋で試合をテレビ観戦させてもらったのです。その時もママさんが「日本人は戦い方がきれいよね。ずるい事しないもの。今日は負けちゃったけど、神様はちゃ〜んと見ているんだから、必ずいい結果がついてくるわよ!」と、元気に話していたのに…(そして、まさにその数日後、日本はママさんの言ったとおり、正義の優勝を手にしたのです)。

ママさんのお加減が気になりながら、会場へ…。リハーサルを慌しく終え、あっという間に開演時間が迫ってきます。僅かな空き時間に、親父さんに作ってもらったカツサンドをほお張ります。包みを開けると、親父さんたら、普通なら捨ててしまうサンドイッチを作る時にでる切り離されたパンの端っこ(通称“パンの耳”)も、ちゃんと袋に入れてくれていました。パンの耳部分にもカツの端っこのほうがちょっとはさまっていて、それがまたおいしそう…。この下町っぽい感じ、大好きです。「耳のとこだってパンだからね。いや、耳がまたうまいのよ。しっかり全部食べて、力つけるんだよ!」という親父さんの声が聞こえてきそうです。…美味しいカツサンド(耳つき)と下町人情でエネルギーチャージして、いざ本番!

…生徒さんが弾くのを見るのは、何回経験を重ねても緊張します。これはきっと、限りなく“親心”に近いのだと思います。小さい子は怖いもの知らずだというけれど、やはり彼女たちも彼女たちなりに、いつもとは違うスタインウェイのフルコンサートグランドピアノ、本番用ライトやステージ…といったコンサートの雰囲気に、戸惑っているのがよくわかるのです。願わくば、いつも私に色々な出来事をお話してくれるように、伸び伸び楽しんで弾いて欲しい…。舞台裏でモニター画面を見つめながら、祈るような気持ちです。

果たして、発表会は素晴らしく暖かなものになりました。緊張を受け入れ、自分や音楽の力を信じて懸命にピアノに向かう生徒さんの姿に、私はいつも改めて音楽の持っているちからの大きさや、人間の表現能力の可能性を再認識させられて、一人ひとりに「ありがとう!」と言いたい気持ちになります。感心したのは、小さな生徒さんも、最後まで本当におりこうさんに他の人の演奏を聴いてくれたこと。わが子、じゃなかった、わが生徒ながら、申し分のない鑑賞態度でした。会を支えてくださった御父兄の皆様、お客様には、感謝あるのみです。

生徒さんの演奏にしても洋食屋の親父さんにしても、人に何か温かいものを与えられるって素敵なことです。人間の幸せの本質はこんな“さりげない温かさ”にあるのかもしれません。温かさに対して、いつも心から感謝できる人でありたいものです。そして、私の音を聴いてくれた方が、なにか温かなものを感じて、ちょっぴり幸せになって下さったら、どんなに嬉しいことでしょう。…そんな演奏家を目指して、ひたむきにピアノと向き合っていたい私です。

2006年04月06日

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