第281回 ただ、淡々と歩いていこう

この頃なんだか、ゆるやかに疲れています。“寒暖の差に身体だついていかない”って、まさにこういうことなんだろうな、という感じです。

生徒さんの発表会は目前に迫っているし、毎年かかわっているコンクールの審査関連の課題曲のレクチャーコンサートなどのお仕事のために、勉強しなければいけない譜面は目の前に山と積まれているのに、なかなか直視できずにいます。これではいけない、と頭では分かっているのですが…。

では気分転換に、と本を読み始めるも、元来の“凝り性”(?)がたたって熱中しすぎてしまい、家事も寝るのも惜しんで一心に読んでしまいます。完読した時には充実感はあるものの、睡眠不足でぐったり疲れてしまっているのですから、気分転換どころではありません。ほどほどに、というのが、どうも苦手な性分みたいです。

詳しい方から聞いたのですが、このような“おっくう感”が出てきたら、下手に気分転換を狙って動きすぎないで、素直にゆっくり休むのが基本なのだとか。う〜む、そうか。どうも、仕事と言っては動きまわり、気分転換とかストレス解消といっては動きまわり…。何かしていないともったいないような気持ちになってしまう、という“時間の貧乏性”がたたっているようです。

そういえば、「お散歩」と思って外に出たはずが、いつのまにかすたすたとウォーキングのペースで歩いているし、綺麗な桜があればごそごそカメラを取り出して、撮影してしまうし、余計なことをしないでただ、純粋にぼ〜っとする、ということがなんと下手なことか…!

初めて母とパリに行った時、早起きして街を散歩したことがあります。カルティエ・ラタンの学生たちに混じってまだお店も空いていない路地を気ままに歩き、リュクサンブール公園をぶらついていたら、美しい彫刻のモニュメントのある池に行きつきました。カモの親子が季節はずれの水遊びをしているのを、ふと通りかかったGパンに黒いトレンチコートを小粋に着こなした、20代後半くらいの背の高いパリジャンが、足を止めてしばらくながめていきました。

ただそれだけの出来事だったのですが、その自然なたたずまいがとても素敵で、またその彼が愛らしいカモを見て浮かべていたほほえみがなんとも言えずに優しげで、とっても印象的なシーンでした。その時の彼の写真は勿論、残っていませんが、記憶のフィルムにしっかりと写し撮られていて、いつでも鮮明に思い出すことができます。

ドイツの森を、地元に住むドイツ人ワルターと一緒に歩いたことがありました。彼は「動物が驚くといけないから、森の中ではあまり会話はしない方がいいな。するとしても小さな声でね。」と言うと、おもむろにそこに落ちていた小枝を拾い上げ、黙々と一定の速度で歩いていきました。落ち葉の上を浮いているような、ゆるやかで美しい歩みでした。進んでいくうちに、ドイツの深い森と自分たちがだんだん一つになっていくような——身体中で森を感じ、呼吸しているような——不思議な感覚に襲われたのを覚えています。やがてワルターがある方向を指差して、「ほら!あそこ…」子音だけで話しているような小声で耳打ちしました。そちらに目をやると、遠くの方に辛うじて、背中に白い斑点のある、まさにバンビのような小鹿の姿が見えました。思わず、足が止まりました。

道の周りの様々なことを受け入れながら、歩み続ける…。それは一見消極的なようでいて、実は他力本願では成しえない、強い意志と生命力の成せることです。周りに流されるのでもなく、頑なになるでもなく…。“歩ける(=生きている)”ことに感謝しつつ、深く呼吸をしながら淡々と歩んでいけたらよいのですが…

2006年03月30日

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