第247回 涙は心の栄養…

私の生徒さんの中には、もう15年以上ものお付き合いになる方もいらっしゃいます。例えば、Mさん。年齢は私よりも20ほども先輩ですが、とてもいいお付き合いをさせていただいています。テレビのローカル番組のなかで、ディオ・ヴィガドーのちょっとした特集(?)コーナーを放送していただいた時には、レッスン風景の撮影とインタビューでご出演下さったり、Mさんのお声がけによって、地元の小学校でのピアノリサイタルが実現したこともありました。こうなると、生徒さんというよりも、素敵な『音楽仲間』です。

ある日のMさんのレッスンで、ベートーヴェンの“テンペスト”ソナタ第一楽章のレシタティーボのワークをしているうちに、“音楽と言語”についての話になりました。言葉の及ぼす芸術的影響について、話しが白熱してきました。「日本語って、ちょうど日本の電車の座席みたいに、横に並んで座って、同じ景色を見ながら会話をするような言語だと思うんです。それに対して、英語は双方が向き合って座って、お互い違う方向を向きながら、相手に自分が見えているものを話す、というようなところがあるような気がするんです」大学では英文学を専攻され、今はボランティアで諸外国からの留学生に日本語を教えていらっしゃるMさんならではの見解に私はすっかり感心し、つい「なるほど!素晴らしい観点ですね!」と、叫んでしまいました。

「Mさんのおっしゃる感じ、よく分かります。きっと日本語って、基本的に“共感”する言語なんですよね。一方、英語は“説明”するのが得意な言語、っていう感じが…」「そうですね。本来日本語って、平和的な特徴を持っているような気がするんです。よく、日本人はNOとはっきり言わないし、日本語は曖昧で分かりにくい、とか、悪く言われてしまうけど、日本語ってすべてを明確にしなくてもお互いに感じあえるものを大切にして、思いを分かり合おうじゃないか、というところから始まっていると思うんです…」「珍しいでしょうね。こういう言葉の文化をもつ国って…」日本語の優しさ、人とのつながりを信じ、重んじる強さなどに改めて心を打たれ、気づいたら二人して涙ぐんでいました。

レッスンには、実はさまざまな“涙”があるのです。ベートーヴェンの真摯な音楽への情熱を体で感じた時、感動で弾きながら思わず涙が溢れてしまった生徒さん、思うように弾けない自分へのもどかしさからつい、涙がこぼれてしまう生徒さんもいます。でも、告白すると、誰よりもしょっちゅう涙が滲んでいるのは美奈子先生だったりするのです(誰ですか?「美奈子ちゃん、それ、トシよ、トシ」なんて言っているのは!)。音楽の喜びや美しさを共感できた時や、生徒さんの演奏に成長を見出した時、先生は密かに涙がこみ上げているのであります。考えてみたら、ピアノを弾いては作品の素晴らしさに感激して涙し、生徒さんのひたむきな演奏を聴いてはまた涙し…。私はなんて幸せな泣き虫なのでしょう。(よく、“涙は心の汗”なんて言われるけど、私にいわせりゃ“涙は心の栄養”なのだ!)

時には哀しい涙もありますが、ネガティブに思われる涙も、実はポジティブな方向へ進むための起爆剤の役割を持っているのかもしれません。心によい刺激を受けて、この夏もいい汗、…じゃなくて、いい“涙”をたっぷりかいちゃえ、と思っています。そうしたらきっと、その何十倍もたくさん、心から笑える人になっているような気がするのです…。

2005年07月28日

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