第242回 英国:高速飛ばしてゆっくり歩こう ③

ダニエルとリンの心づくしのディナーコースは次々とダイニングに集まったその日の全宿泊客の胃袋に納まり、その笑い声に消化されて幸せな夜は深まっていきました。圧巻だったのはデザートのプディングの後のチーズの数々。マスカットやセロリと一緒に供された夢のように美味しいスティルトンチーズには思わず私も饒舌になり、隣の席のフィリップに「スティルトンって、私はもっとも美味しいブルーチーズだと思っているんです。ロックフォールよりも…!」なんて気障なことを言ってしまいました。雑穀の入ったクラッカーとのマッチングがまた絶妙で、心憎い限りなのです。

やがて厨房からエプロン姿のリンが登場して、演劇の口上のような調子で言います。「皆さん、今日のお料理は以上です。いかがでしたか?」宿泊客が口々に「美味しかったわ!」「素晴らしい!」と彼女を労うと、「デザートも充分召し上がっていただけましたか?よろしかったら向こうのお部屋で、この後もゆっくりコーヒーやお茶を楽しんでくださいな。赤いナプキンが結わきつけてある方のポットは、カフェインのないコーヒーです。手作りのトリュフチョコレートもお供にどうぞ!…さて、と。恒例、『明日の天気予報』です。(メモを見ながら)そうね、素晴らしい天気になりそうよ。つまり、素晴らしく“ここらしい”天気って意味で…。まず、雨はたっぷり降るでしょう。これも、“素敵な雨がたっぷり”って意味ね。気温は低目みたいだけど、歩くことが出来ないほどではないわ。ええっと、明日ランチボックス(お弁当)のいる方は?」

お店のないようなところをひたすら歩く人のために、この地方では多くの宿がこのように、ランチパックを作ってくれるのです。リンはサンドウィッチの具やフルーツ、ちょっとした焼き菓子など、その中身について詳しくオーダーをとっていました。驚いたのは、彼女の“天気予報”の内容にもかかわらず、多くの人がランチパックを頼んでいたこと。つまり、雨だろうがなんだろうが、彼らはとにかく「歩く!」のです。

前日の疲れはどこへ蒸発したのか、翌日は三人とも目覚ましよりはるかに早く起きてしまいました。目の前に広がる牧場には草を食む親羊とそのお乳を飲む子羊の、のどかな姿がありました。お天気はまだ、崩れていません(イギリスは日本と違い、雨が降るといっても一日中降りとおすことはほとんどないようです)。画用紙にスケッチを始める母、カメラを取り出して光がどうだとか、あれこれ言いながらシャッターを押す父。私はさっさと顔を洗い、朝食前のお散歩の身支度をします。

こんな個人旅行は、予定どおり、思いどおりにいかないことの連続ですが、それがちっともいやじゃないのも個人旅行の面白さなのではないでしょうか。例えば、お天気。「いいお天気に恵まれますように…」といくら祈っても、そうなるとは限りません。ところがどんなに雨に降られ、ひどいなりになっても、後になって写真に写りこんだ雨のしずくを懐かしく眺める時、それはいつしか素敵な思い出になっています。そうなると、「いいお天気」って何を言うのだろう?…実は晴れても荒れても、お天気は何でも「いいお天気」になりうるのです。反対に、完璧に晴れ渡っていても、それが水不足に苦しんでいる地域なら、「いい」とは限らなかったりするわけで…。きっと、人生もそう。例え今が、過去に「こうなりますように」と願ったとおりではないとしても、様々なかたちで「いい人生」は目の前に拓かれているのです。あとは、それをどう受け入れるか、だけだったりするのです…。

「明日はどう過ごす予定なの、フィリップ?」私の質問に、もう孫が何人もいる彼が昨夜、静かに答えてくれた「予定?明日もジェントル・ウォークだよ」という返事が、ふわ〜ん、と心の真ん中に響きました。ジェントル・ウォーク。素敵な言葉でした。

2005年06月23日

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